うずらのブログ

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諂米主義者の卑屈な根性

『入念指示で「事故防げた」=ボ社任せ、責任否定-送検16人供述全容・日航機墜落』(8/11 時事通信社

https://www.jiji.com/jc/article?k=2018081100369&g=soc

「520人の犠牲者を出した1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故で、群馬県警が業務上過失致死傷容疑で書類送検した20人のうち、ボーイング社の4人を除く日本航空運輸省(現・国土交通省)の16人の供述の全容が11日、明らかになった。「ボ社に任せた」とする責任回避の姿勢が目立ち、整備で入念に指示すれば「事故を防げた」との複数の供述が存在していた。(略)」

 

今夏は日航ジャンボ機墜落事故から33年目となる。

単独航空機による事故としては史上最悪となる520名もの死者を出した同事故の原因は諸説あるが、1978年に同機が伊丹空港で起こした尻もち事故後に、後部圧力隔壁を修理したボーイング社の修理ミスというのが公式見解であり、同社もこれを認めている。

 

であれば、一義的な責任は飛行機を製造し、修理責任者であるボーイング社にあり、重大な事故を引き起こした“犯人”として責めを負い、被害者に土下座して詫びるべきは同社であるはずだ。

 

例えば、2015年に発生したカーフェリー「さんふらわあ だいせつ」の火災事故(乗員1名死亡)では、火元となったトラックの冷凍機モーターを交換した整備士の男が業務上過失致死などの容疑で書類送検されている。

 

事故の規模が違うとはいえ、事故を起こしたトラックの運転手の点検ミスではなく、トラックの整備責任者の責任を問うたもので、整備不良が惹き起こした事故の責任の所在は、一義的に整備責任者が負うべきものという原則に従えば、日航機の事故責任を厳しく問われるべきは、やはり、いい加減な修理で重大な修理ミスを犯したボーイング社であろう。

 

しかも、自動車やトラックと違い、数百万もの部品で構成され、メーカー以外にその構造を詳しく検証できない飛行機ならば、メーカー側の整備ミスを運航会社が点検で発見できる確率は相当低く、日航に必要以上の責任を負わせるのはお門違いも甚だしい。

 

なのに、多くの国民やマスコミは日航を目の敵とし、ボーイング社の修理ミスを完全スルーして点検責任者ばかりに責任を押し付けようとする。

 

ボーイングは、遺族の前で薄っぺらな弔辞を読んだだけで事を済ませ平気な顔をしているが、当時のマスコミだけでなく、今に至ってもボーイングの責任を口にしないマスコミがゴロゴロいることに強い憤りを覚える。

 

えてして、日本人は外国人の圧力に弱く、外に向かって文句を言えない腹いせに、自国民を必要以上に攻め立てる醜悪な癖がある。

 

日航ジャンボ機事故を巡るマスコミの偏った論調も、トヨタ車のブレーキ故障問題でアメリカ司法省から言い掛かりをつけられ、事実は、バカなアメリカ人ドライバーによるアクセルとブレーキとの踏み間違いによる「自爆事故」であったにもかかわらず、1,200億ドルもの和解金を支払わされた事例とよく似ている。

 

マスコミの連中は、トヨタの事件でも自国メーカーを庇うどころか、アメリカと一緒になってトヨタ車のブレーキに欠陥があるかのように騒ぎ立てていたが、同事件の公聴会で証言した被害者を騙るオバサンの不可解な言い分(下記参照)を聞いて怪しいと思わなかったのか?

 

アメリカの狂言オバサンの言い訳〉

①走行中のレクサスが加速開始

②ギアを「ニュートラル」に入れても減速せず、「リバース」には入らない

サイドブレーキも機能せず時速145キロに

④「ガードレールか木にぶつけて止めるしかない」と考えた

⑤時速160キロに達し、夫に「最後の電話」をした

⑥その後、特に新しいことをしないうちに徐々に減速

⑦時速53キロに落ちたところで、中央分離帯に寄せてエンジンを切った

 

こんなものは、誰がどう見ても、アクセルを間違ってベタ踏みしたスピード狂の見苦しい狂言だろう。

 

常に日本人の粗探しに躍起になり、誰かを蹴落としたい、誰かの足を引っ張りたいと舌なめずりするマスコミ連中の卑しい根性が見え隠れする。

 

これは、原爆投下や終戦記念日などの集会で、アメリカの戦争犯罪や虐殺行為を非難せず、ひたすら不戦の誓いとやらを唱え、先の敗戦の原因や責任を、戦争を選択せざるを得なかった日本人の無謀さのみに帰結させようとするマスコミの論調に通じるものがある。

 

第二次世界大戦中にアメリカが日本各地を空襲し、それらによる死者は41万人以上(原爆被害者を含む)にも上る。

 

先日、北海道に出張した際に地元の人と雑談の中で、戦争当時、函館市小樽市帯広市旭川市といった戦略上まったく意味のない都市や農村部もアメリカ軍によって空襲され、一般市民を中心に死者2,000人を超える被害を出したとの話を聞いた。

 

筆者も幼い時に、母からアメリカ軍の爆撃機が襲来し、空襲警報が鳴って避難した時の体験を聞いたことがある。

その時は何気なく、「これが空襲警報の話か」と聞いていたが、よく考えると、東北地方の山奥にあった母の生家にまでアメリカの空襲が迫っていたことに強い違和感を覚えた。

 

戦略的見地からは、人気も乏しい農村地帯を爆撃するなんて、爆弾と燃料の無駄遣いでしかないはずだが、当時のアメリカ軍は全国180カ所もの爆撃リストを作り、軍事的要所でもなんでもない都市や農村部まで爆撃している。

 

これは、戦争を超えた「殺戮」であり、東洋人に対する強い差別意識や恨みに裏打ちされた虐殺行為にほかならない。

 

本来、日本人たる我々が、原爆投下の日や終戦記念日(※こうした名称自体も見直す必要があるが…)に唱えるべきは、当時のアメリカが犯した醜い戦争犯罪や虐殺行為に対する強い非難である。

 

いつまで経っても“従米根性”や“諂米主義”から抜け出せぬバカマスコミに踊らされ、日本人の真の敵を見誤ってはならない。