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うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

シロウトのシロウトたる所以

国民が政治に求める世論調査では、「景気・雇用・年金」の3トップが常に上位を占めている。
安倍政権は、各種世論調査で何故か安定した支持率を維持しているが、こういった国民のニーズを満たしている訳ではない。

まず、「景気」において、日本の2016年の名目GDPは、例の嵩上げ策発動前の推計値で504兆円と微増傾向にはあるものの、20年も前の実績値(1997年/523兆円)を遥かに下回る水準でしかない。

また、サラリーマンの平均年収も、2015年は420万円と、1996年の461万円を大きく下回ったままだ。

次に、「雇用」に関して、昨年11月に厚労省が発表した「就業形態の多様化に関する総合実態調査」によると、パートや派遣などの「非正社員」が占める割合が、初めて全体の40%に達し、1990年辺りの20%という水準と比べて倍増しており、まともな職業に就ける確率は、確実に狭まりつつある。

しかも、ようやく一流企業に入れたかと思えば、新入社員に過酷な残業とパワハラを課し、自殺者を出す電通のような質の悪いブラック企業だらけときている。

さらに、「年金」に関して、安倍政権は昨年11月に衆院厚生労働委員会で、物価と賃金で下落幅がより大きいほうに合わせて年金も減額するという年金カット法案を強行採決したばかりだ。

また、“高齢者”の定義を70歳以上に引き上げ、定年延長や医療や介護サービスにおける高齢者の負担を増やそうとしている。

こうした下策や悪手を見せつけられて(おまけに、中韓だけでなく、米露にも朝貢外交を続ける弱腰ばかり…)、なお、昨年一年間の与党の支持率は35~40%(NHK世論調査)を維持している。

失政が見過ごされる主な理由は、前政権よりマシという消極的な理屈であることは判っているが、そもそも、日本が長期デフレ不況に突入した1997年(橋本行革)及びそれを確定的にした2001年(小泉構造改悪)以降、ほとんど自民党が政権を担ってきたのだから、民進党政権時だけと比較して、レベルの低い満足感に浸ること自体が間違っている。

この点については、安倍政権に甘い採点をし続ける国民に対して強く猛省を促したい。

安倍政権による数々の失政が大した糾弾も受けずに、「他よりマシ」という大甘な評価を受けるのは、あたかも景気が十分に回復したかのような大嘘を撒き散らす主流派経済学者やリフレ派と、その取り巻き連中によるサポートも大きい。

所得が伸び悩み雇用の不安定さが増すばかりの家計は、消費支出を減らし続け(うるう年効果を除くと、実質消費は対前年比15カ月連続で減少)、デフレに苦しむ企業は、帝国データバンクの『2017年の景気見通しに対する企業の意識調査』によると、2016年の景気動向について「回復」局面だったと判断する企業は、たったの5.7%に過ぎず、「踊り場」53.9%、「悪化」19.3%、「その他」21.1%を合わせて、実に94%余りが回復を実感できていない。

にもかかわらず、経済政策のメインストリームに胡坐をかく経済学者(を自称する連中)たちは、
「高度成長できる時代は終わった」、
「消費が伸び悩んでいるのは消費増税を決めた民進党のせいだ(→増税を強行したのはどこの党か??)」、
「日本の潜在成長率は1%未満だから十分合格点」、
「雇用環境は過去最高、非正規でも失業するよりマシ」、
「月80時間程度の残業なんて普通だろっ?」
だのと、「景気回復の定義」を勝手に偽り、必死になって失政を糊塗しようとする。

その態度には、経済学者たる矜持も意地も、微塵も感じられない。
ただ政権に阿るだけで、国民からの怨嗟の声を冷笑で封じようとする様は、卑しさと浅ましさに溢れている。

そんな彼らの一人(主流派経済学の末席を汚すシロウト教官(非常勤))に言わせると、“失政の言い訳マニュアル”と化してしまった経済学は「宝石」だそうだ。

シロウト教官曰く、
「教鞭をとる者は(経済学という)宝石をばら撒きますが、それを拾うも拾わぬも学生の自由だ」、

「どうして“宝石”が必要なのか。それは勝者の理屈と敗者の理屈の違いになるからだ。
世の中にはその2者しか存在しない。
社会に出たとき、他人の財を奪い取れと政府に命令するのが後者で、率先して宝石を与える立場へと歩を進めるのが前者だ」
だそうだ。

何とも無責任かつ無能な言い草だ。
この程度のレベルで教鞭をとれるなら、気の利いたベトナム人でも連れてきた方が、より実践的に経済の仕組みを教えられるのではないか?

まず、シロウト教官殿は、「なぜ、経済学が宝石たるのか」、また、「自身が心酔する経済学が宝石と呼べるレベルに達しているか」について、まったく説明できていない。

さらに、「社会を勝者と敗者に分断し、後はほったらかし」という学級崩壊した小学校レベルの放任主義を良しとするありさまで、学者を称しておきながら、マクロ経済運営を完全に放棄している。

実社会の経験の浅い者に限って、持説の過ちに対する批判から逃げ回るために、「学問」という殻を悪用しがちだ。
彼らは、「学問」という高尚な言葉を使いさえすれば、市井の人々の追及が緩むと勘違いしている。

およそ、学問やそれを修めた人物が周囲から尊敬を集めるのは、当の学問が、人々に大いなる社会的果実をもたらし、生活向上や利便性向上に実践的な効果を付与できるからに他ならない。

裏を返すと、国民生活向上に何の役にも立たぬばかりか、そのレベルを下げ続けるような社会的貢献度の低い学問は、もはや、「学問」と呼ぶに値せず、それを妄信するバカ者の「性癖」程度の扱いで十分だろう。

経済学を「宝石呼ばわり」したいのなら、それに相応しい働きをし、具体的な数値を以って実績を示さねばなるまい。
だが、20年前の実績さえ越えられぬような体たらくでは、宝石どころか、そこいらの石ころとしか呼べまい。

また、「率先して宝石(※多分「財」という意味)を与える立場へと歩を進めるのが勝者」だそうだ。
しかし、国民は長期デフレ不況の下で、財を与えられるどころか奪われてばかりなのだが、日本には、シロウト教官殿の定義する「勝者(=慈悲深い神)」は、存在していなかったのか?

彼のように、やたらと学問の敷居を高め、その権威に縋ろうとする連中は、「経済学への批判=学問そのものの否定」と曲解しがちだ。

だが、真の批判の矛先は、経済学ではなく、その真理を捻じ曲げて悪説を世にバラ撒き悦に入る「曲学阿世の徒」に向けられているのだ。

経済学という“虎”ではなく、“その威を借る卑怯な狐”が批判の矢の的になっていることに気付けないからこそ、「シロウト」なのであり、そうしたシロウトの吐く学問など、いかがわしいニセモノに過ぎず、到底、本物呼ばわりされるレベルには達していない。

このままでは、経済学そのものが、経済学徒を称するシロアリどもに喰い荒らされ張子の虎と化してしまう。

シロアリ(シロウト論者)には、自身への批判に対し、経済学という親の庇護に逃げ込まず、自らの頭を使い思考する努力をせよ、と言っておく。