うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

「生産性」というコストカットの隠れ蓑

9月30日に開催された第15回経済財政諮問会議では、「(1)金融政策、物価等に関する集中審議(2)働き方改革とマクロ経済(3)2030年の経済構造を展望した改革について」 の3つが議題に上がっていた。

(会議を仕切るのが、あの“石原伸晃(内閣府特命担当大臣(経済財政政策)兼経済再生担当大臣)”という辺りで、すでに、まともに取りあう気を失してしまうが…)

議事要旨に目を通すと、先ず、日本経済を覆う「しつこいデフレ」の原因は、国民が物価も賃金も上がらなかった過去、いわゆる、「バックワールドルッキング」に憑りつかれているためだとの指摘があり、それを払拭するには、物価や賃金に対するフォワードルッキングな期待を高めねばならず、そのためには、第三の矢(構造改革)の柱となる「働き方改革」による生産性向上が欠かせない、といった具合に議論が展開されている。

会議を運営するメンバーの目的は、“生産性向上”という耳障りの良い言葉を上手く使い、「歳出削減・構造改革規制緩和」という『真・三本の矢』で、日本の社会構造を射抜くことにある。

公益財団法人日本生産性本部によると、「生産性」という言葉の定義は、「「生産性(Productivity)」とは、投入量と産出量の比率をいいます。投入量に対して産出量の割合が大きいほど生産性が高いことになります。投入量としては、労働、資本、土地、原料、燃料、機械設備、などの生産諸要素が挙げられます。産出量としては、生産量、生産額、売上高、付加価値、GDPなどがあります」となっている。

しかし、過去のエントリーでも触れたが、筆者は、この「生産性」の定義、とりわけ、「産出量」の定義が曖昧なまま、あちこちで使われていることに疑問を抱いている。

上記の「産出量=生産量、生産額、売上高、付加価値、GDP」という定義が無視され、「産出量=生産量(のみ)」という偏った解釈、つまり、「生産量÷従業員数」という“物的労働生産性”の側面から、コストカットに力点を置いた議論しか行われていないのではないかと、強い疑問を感じている。

経済財政諮問会議の議事録にある「生産性向上を図るためには、AIなど、技術革新を最大限活用したイノベーション改革の達成が必要」、「従来の概念にとらわれない柔軟な働き方」といった言葉の端々にも、そういった発想が見て取れる。

物的労働生産性に偏った議論が、なぜダメなのか?

それは、物的労働生産性という生産量(産出量)マターの考え方は、生産したモノはすべて捌け、供給するサービスには遍く消費される、という“セイの法則”にも似た甘えの構造に基づく発想でしかないからだ。

議事要旨で、いみじくも「しつこいデフレ」と指摘されたごとく、20年以上も我が国を苦しめてきた平成デフレ不況は、民間経済主体の所得不足や生活力改善期待の喪失による強烈な需要不足が惹き起こしたものである。

需要不足経済下で最も重要視されるべき課題は、「需要不足を埋めること」であり、「供給力の質を問題視すること」ではない。

しかし、経済財政諮問会議のみならず、将来の若者不足や労働力不足を心配する議論が活発だが、それらの議論は、どうも、モノやサービスの供給量をいかに維持するかという観点からしか論じられていない気がする。

現在行われている生産性論議の大半は、“いかに生産コストを抑えるか”というコストカット論に終始し、所得向上の原資を稼ぐための議論が徹底的に不足している。

「とにかく人手を確保しろ、女性でも老人でも、外国人でもいいから、安く使える人材を連れてこい」という不毛な結論ばかりで、「産出量=生産額、売上高、付加価値、GDP」という考え方、つまり、労働分配のための原資(=粗利益)をいかに向上させるか、という観点がすっかり抜け落ちてしまっている。

何のために生産性を上げるのか?

それは、「同量の労働力で、より高い収益を稼ぎ出し、所得を上げるための原資を確保すること」であるはずで、低賃金労働を常態化させるためではない。

労働コストカットは、所得縮小→デフレ予想→需要低迷→生産性低下という負のスパイラルにしかならない。

そのために必要な議論は、“柔軟な働き方”という名目による雇用の流動化や高度人材の活用という外国移民の受け容れではない。

そんなものは、単なる労働コストのカットにしかならない。

生産性向上に必要なのは、労働や生産に対する対価の質を高めること、つまり、“生産額、売上高、付加価値、GDP”を伸ばすための貨幣の投入量をいかに増やす(=需要拡大)か、という観点に気付くことだろう。