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うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

経済が生き物であり続けるために

TV番組や雑誌のインタビューなどで、コメンテーターや経営者、政治家なんかが、「経済は生き物だから」と話すのを目にする機会が多い。

このセリフを使いたがる人々の意図は様々で、経済活動のダイナミズムが醸し出す躍動感、次々と新しい商品やサービスを生み出すマーケットの鮮度などに対する期待感や驚嘆、あるいは、激変するマーケットに翻弄されることへの不安など、まさに千差万別だろう。

だが、この言葉ほど真意や真髄を理解されぬまま多用されているものはない。

端的に言うと、経済が生き物であることを本当は理解せず、生き物であるはずの経済への接し方を学ぼうとしないまま言葉を発している者が多いということだ。

経済が“生き物”であるのなら、

・十分な栄養を摂取できるだけの食事

・体調維持のための適度な運動

・社会的マナーを守らせるための適切な躾

が欠かせないだろう。

しかし、この言葉を吐く人に、そうした意識があるようには思えない。

大概は、“経済なんて、ほったらかしておいても、誰かが勝手にうまく運営してくれるはず”という身勝手な妄想を前提に、経済動向を傍観しているだけで終わっている。

この手の輩は、経済活動に対する主体性がないだけではなく、あたかも経済が永久機関であるかのように勘違いしているのではないか。

そうした勘違いが、“経済活動は自律的な存在だから、政府は余計な邪魔をせずに民間に任せておけばよい”、あるいは、“財政政策のせいで、退場すべきゾンビ企業が温存され、市場の健全化が阻害される”などと妄言を吐く連中を調子づかせ、マクロ経済と政府との関係が断ち切られようとしている。

橋本政権や小泉バカ政権以降のほとんどの政権は、こうした勘違いをベースにした緊縮型の経済運営を断行した。

しかし、“官から民へ”や“小さな政府路線への転向”がもたらしたのは、「世界で唯一の非成長国家」という恥ずべき称号でしかなく、その間に逸失した国民所得も累計で4~5千兆円に達するなど、国民は甚大な被害を被っている。

“経済のポテンシャルを活かすために、政府がマクロ経済運営に積極的な関わりを持ち続ける”という基本を蔑ろにした結果、日本経済は惨憺たる大敗北を喫したと言ってよいだろう。

先に示したとおり、あらゆる生き物には「食事・運動・躾」が欠かせない。

だが、愚かな政治家だけでなく、財政政策や政府によるマクロ経済運営を忌み嫌う多くの国民は、“経済という生き物”に対して、緊縮政策によって三度の食事を抜き、構造改革による過度なシゴキを繰り返し、野放図な規制緩和や市場開放により躾を放棄してルール無視の地下プロレスを強いるなど、過酷な体罰や虐待を繰り返してきたのだ。

長年ひどい仕打ちを受け続けてきた日本経済は、生き物としての基礎体力を奪われ、もはや息も絶え絶えの状態にある。

経済活動とは、我々に富や所得だけでなく、豊かな生活を提供してくれる最も基礎的かつ最重要の社会基盤であり、その活性化や維持発展を願うなら、生き物である経済に対する愛情と適切なケアを忘れぬことだ。

経済は、確かに生きている。

ゆえに、良好な健康状態を維持し、体力を向上させられるだけの栄養分を常に与え続けることが必要だ。

では、経済にとって最高の栄養分とは何だろうか。

それは言うまでもなく、「所得や売上に直結するお金」であり、それこそが経済活動の原点である。

ベンチャー企業にしろ、地方の食堂にしろ、世界に冠たる大企業にしろ、企業活動の最終目的は売上や収益を上げることと、それを原資として従業員たる個人に所得を分配することにある。

企業が、人材を育成し、技術を磨き、他社との激烈な企画・販売競争に血道を上げるのも、突き詰めれば、お金を稼ぐことの一点に集約される。

民間企業や家計の力だけで、消費や投資が活発化し、実体経済が目まぐるしく成長している状況ならよい。

だが、現状では、誰もが投資に消極的で、財布の紐をきつく締めたまま自発的に動こうとせず、経済は生き物としての機能を失いつつある。

こんな時に、改革だの、財政再建だの、財政支出の質だのとくだらぬことに拘っていては、経済の体力が削がれるだけだ。

もっと大きな視点に立ち、経済にダイナミズムを生み出せるような提言をしてもらいたい。