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うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

教科書に逃げ込む前に、現実を直視せよ

経済系のブログなんかを眺めていると、いまだに「経済学の教科書を読め」と斜め上から目線で高説を垂れているバカ(プロを自称するシロウト以下の詭弁家)を発見することがある。

特に、マンデル・フレミングモデルやAS(総供給)-AD(総需要)曲線を神の啓示のごとく崇め、「経済政策=金融政策」という金融政策万能論を妄信する輩が多いようだ。

彼らに言わせると、経済学の教科書を読めば、変動相場制の下での財政政策など無用の長物であることや、非正規雇用や保育士の待遇を上げるなんてどだい無理なことくらい、直ぐに解かるはず、だそうだ。

彼らは、経済学のプロを自称し、やたらと小難しい経済理論や数式を持ち出して武装しようとするが、出てくるメンバーは、だいたい「マンデル・フレミングモデル」や「インフレ・ターゲット理論」、「AS-AD曲線」、「IS-LM曲線」辺りが関の山だ。

理論や数式で世の中の事象を説明しようとするナマケモノに限って、現実よりも理論を優先しがちだから進歩がないのだ。

彼らが誇らしげに紹介する「AS-AD曲線」、「IS-LM曲線」の均衡点など最たるもので、2本の直線を用いて、それを左右に動かし、両線の交差点を均衡点だと決めつける理論は、非常に単純化された仮想空間、もしくは、市場のセリのような極めて原始的なモデルでしか通用しない。

そういった理論や公式が成立するには、限られた商品しか存在せず、それらがすべて消費されるというあり得ない前提条件が必要になろう。

実体経済下で売買される商品やサービスの価格は、需要・供給のバランスで決まるほど単純ではない。

実際に企業を経営したり、勤め人として企業活動に携わっておれば解かるだろうが、自社が提供する商品やサービスの価格なんてものは、需要の多寡に係らず、予め供給サイドが決めており、大量購入時の割引サービスなどは別として、価格変動は一定の範囲に収まるはずだ。

例えば、ネットのプロバイダー料金なんて、需要は増える一方だが、価格は低下しているし、自販機の缶ジュースのように、売上が長期的に低迷しているのに値上げを続ける例や、スーパーの乾物コーナーに置いてある干し貝柱のように、まったく売れていないのに、安くなるどころか価格が上昇している例もある。

また、エステのサービス料金や宅配サービスの料金、銀行の振込手数料のように、需要があろうがなかろうが、一度決めた料金が微動だにしない例も数多ある。

市場の価格は、企業の戦略や仕入れコスト、業界ルール、流通との関係など複雑な因子によって決まるものであり、需要と供給のバランスもその一要素に過ぎない。

そもそも、2次元のグラフと2本の直線だけで実体経済の動きをグラフ化することに無理がある。

実際のマーケットでは、3次元、4次元の世界で、複数の直線や曲線が複雑に絡み合って商品やサービスの価格を形成しているものだ。

しかも、一度決まった価格(均衡点)は、需要の多寡に係らず、そう簡単に動くものではない。

AS-AD曲線やIS-LM曲線のみで経済学云々を語る連中は、複雑な市場の動きを、サンマや大根のセリか何かと勘違いしているのではないか。

そうだとすれば、あまりにも杜撰である。

実際にサンマの不漁が続けば、しばらくは市場の価格は上昇するが、それが永遠に続くわけじゃない。

やがて消費者に呆れられ、他の魚や肉という代替品へ乗り換えられるだけのことだ。

また、「経済学の教科書を読め派」の連中は、得てして、マンデル・フレミングモデルや金融政策の効果を礼賛するが、これも失笑ものだ。

マンデル・フレミングモデルは、為替変動による輸出の影響を過大視しすぎており、内需依存型の経済体制下では通用しない。

そもそも、前提となる財政政策実行→金利上昇→海外からの資金流入→円高という条件設定が単純すぎて使い物にならない。

現に、我が国では、マイナス金利政策による金利下落の状況下で為替は円高に振れており、条件が破たんしている。

マンデル・フレミングモデルでは、「資本の移動が自由/変動相場制の条件下」での金融政策は非常に効果があると強弁するが、黒田バズーカという異次元の金融政策を何発撃ったにもかかわらず、GDPが2期連続マイナスになりそうな体たらくをどう説明するつもりなのか。

マンデル・フレミングモデルの妄信者は、“変動相場制では財政政策は無効であり、金融政策こそが正解”、“90年代以降どの国も財政政策なんてやっていない”と嘯くが、これはまったくの嘘でしかない。

我が国は1971年のニクソン・ショックを契機に変動相場制に移行したが、GDPがまともに成長したのは、積極的な財政政策を採っていた時期と重なり、橋本政権や小泉バカ政権以降の緊縮的な財政運営(=政策経費ベースで緊縮的という意味)により成長が止まってしまったことは誰の眼にも明らかだろう。

また、“90年代以降どの国も財政政策なんてやっていない”なんてのは明らかな捏造で、欧米各国とも財政支出のアクセルをかなり強く踏み、高度成長を続けてきた。

馬鹿正直に財政支出を絞り込み、“世界でたった一つの非成長国”に甘んじてきたのは、主流派経済学の虚妄に騙され続けてきた日本くらいのものだ。

現実よりも理論を優先するバカな連中が、「経済学の教科書を読め」と念仏を唱えるのは、金融政策万能論という信仰に縋り、それを妄信し続けることで、現実から目を反らしたいという願望の表れなのだろう。

彼らが信じる主流派経済学には、「需要創出」という積極的な概念が決定的に欠けているため、実体経済を病ませている需要不足による不況にまったく対応できず、オロオロするばかりだ。

最近では、金融政策という薬の効き目がないことが露見するのを恐れて、構造改革とか規制緩和のような防具まで持ち出し、長期的かつ大規模な財政金融政策という最適な処方箋の提案を邪魔しようと必死になっている。

だが、主流派経済学が世界中で撒き散らした金融政策万能論や規制緩和論のせいで、先進諸国では貧富の格差拡大や中間層の没落が顕著となり、所得や雇用の減退による消費力の低下という弊害が顕在化している。

教科書の世界に逃げ込み、こうした悪弊を放置し続けるならば、「先進諸国の内需縮小→外需頼みの輸出攻勢→通貨の切り下げ競争→通貨安による輸入物価上昇→先進諸国の購買力の低下→新興諸国の輸出減退→外需の受け皿喪失→世界各国の消費力減退→世界規模のデフレ不況→大恐慌」という負のスパイラルは避けられないだろう。

彼らの十八番の「経済学の教科書を読め」という捨て台詞も、金融政策やマンデル・フレミングモデルという最終兵器が、現実世界ではまったく効果を発揮できず、国民から相手にもされない(相手にされなさ加減では、財政政策の方が一枚上手だが…)ことに対する焦りや言い訳の裏返しだと理解している。

教科書を読め云々と負け惜しみを言うのは、“法律の教科書を読了すれば、世の中から犯罪が消えるはず”と妄信するのと同レベルの勘違いに過ぎない。