うずらのブログ

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世論を創るのはマスコミだけの仕事じゃない

2月9日の衆院予算委で飛び出した高市総務相による“電波停止発言”が波紋を呼んでいる。

民主の玉木雄一郎氏が「憲法9条改正に反対する内容を相当時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性があるのか」と問い質したのに対して、高市大臣は、「1回の番組では、まずありえない」としつつ、「私が総務相の時に電波停止はないだろうが、将来にわたってまで、法律に規定されている罰則規定を一切適用しないということまでは担保できない」と述べたのだが、この高市発言に、早速、野党やマスコミが噛みついた。

民主党の安住国対委員長代理(まだ、国会にいたのか…)は、「戦前の検閲制度であり、明らかに放送法を曲解している」とコメントし、(選挙への悪影響を危惧したのか…)与党からも、公明党の山口代表から、「政府が(報道の)内容につい統制を強めるのは慎重であるべきだ」との指摘があった。

マスコミや識者からも、「憲法が保障する表現の自由に抵触する」、「国による恣意的な報道規制につながりかねない」といった批判の大合唱が起こっており、特に、自身の権益が侵されると危惧するマスコミの連中は色を成して反論している。

今回の発言を担保するのは、放送法第4条の規定(政治的に公平であること)であるが、呆れたことに、マスコミの連中は、「放送法は、表現の自由を定める憲法第21条が保障するもので、憲法学者の間では放送局自身が行う“倫理規範”に過ぎない」と主張し始めたのだ。

放送法の存在を「法律」から「倫理規範」へと勝手に格下げし、自分たちが恣意的に運用できるはずだと強弁するのは、“社会の木鐸”を自称する報道機関として恥ずかしくないのか?

放送法は第1条で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を謳っており、“表現の自由の横暴”を認めているわけではない。

そもそも、表現の自由の専横が許されるなら、マスコミが目の敵にするヘイトスピーチですら、誰も止める権利はないはずだろう。

条文では、放送機関に対して、“放送の不偏不党、真実及び自律を保障すること”という基本動作が求められているが、こんなものは、放送事業に携わる者なら“イロハのイ”に過ぎず、何ら難しいものではないはずだ。

くどくど説明するまでもなく、マスコミは社会に絶大な影響力を及ぼす強大な権力を有しているのだから、その行動には一定の制限や規範があって然るべきだ。

権利には義務が伴うことくらい子供でも理解している。

マスコミは、表現の自由の侵害とか、報道に対する政治介入とか、大げさに騒ぎ立てているが、放送法第3条で、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」と番組編成の自由が保障されており、恣意的な内容でない限り、外部から干渉されることもない。

放送法第4条に定められているのは、

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

のたった4つだけなのだが、マスコミの連中は、こんな簡単なことも守れないのか?

政治的に中立な立場を取り、事実をそのまま報じ、対立点があれば両論併記する、これくらいなら、小学生の壁新聞や地域のフリーペーパーでも守れると思うが…。

これが気に食わないなら、放送事業者の免許を返上し、自主制作のDVDを頒布したり、You Tubeでネット配信でもしておればよい。

だいたい、放送法は倫理規範だから放送事業者の恣意的な運用が許される、という論理はおかしい。

倫理規範は絵に描いた餅レベルの扱いで良し、とするなら、マスコミが、企業のコンプライアンス違反を糾弾するのも越権行為だと認めるべきだ。

マスコミの連中が公平公正な報道を放棄し、両論併記を面倒くさがるのは、編成の自由の名を借りた恣意的な番組づくりによる“世論形成権”を手放したくないためだろう。

年明けから、甘利大臣をはじめ、与党議員のスキャンダル報道が相次いでいる。

マスコミは、高市発言を逆手に取り、政権に不都合な報道を規制するつもりかと圧力をかけているが、それは問題のすり替えだろう。

政治家のスキャンダル報道なら、編成云々以前の問題だから、誰にも遠慮せずにどんどんやればよい。

図に乗っている安倍政権を叩くチャンスでもあろう。

だが、いま問題視されているのは、安全保障・エネルギー政策・経済政策・教育問題などといった社会の根幹に係る重要課題に対するマスコミの偏向報道なのだ。

彼らは、レフト線上に自分基準の中立点を設定し、それを“センターライン”だと言い張っている。

両論併記についても、エネルギー政策や経済政策に関する記事では無視されることが多く、間違っても原発推進を強く主張するような意見は報道されない。

せいぜい、“原発の安全性に最大限配慮しながら、適切なエネルギーのベストミックスを実現すべきだ”みたいなオブラートに包んだ表現しか紹介されないし、経済政策に至っては、積極的な財政政策を主張する意見が報道されることなんて、ほとんど無いと言ってよい。

発信されるのは、“積極的な緊縮政策か”、“大胆な構造改革規制緩和か”の何れかでしかない。

これは、安全保障問題も同じだろう。

マスコミの連中は、“世論を創り上げ、それをリードする権利や資格を持つのは、自分たちだけだ”という思い上がりを捨て真摯に反省すべきだ。

放送法第174条には、「総務大臣は、放送事業者(特定地上基幹放送事業者を除く。)がこの法律又はこの法律に基づく命令若しくは処分に違反したときは、3月以内の期間を定めて、放送の業務の停止を命ずることができる。」と明確に定められており、同法は倫理規範だから無視して構わない、という詭弁は一切通用しない。

放送法なんて、ごく当たり前の事しか規定されていない優しい法律なのだから、これを守れぬほどレベルの低い事業者に貴重な放送免許を与える必要はない。

政府は、法の運用を厳格化し、表現の自由を専横する賤しい連中の行動に、きちんと足枷を嵌めるべきだ。

世論というものは、放送免許を独占する一部の不心得者の手により都合よく左右されるものではなく、国民一人一人が創り上げるべきものであろう。