うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

大衆相手の言論活動の難しさ

読者の皆様は、ブログやツイッターなどのソーシャルメディアを、どのように活用しているだろうか?

私も自ブログを開設して超不定期便で記事を投稿するとともに、「進撃の庶民様」のサイト(http://ameblo.jp/shingekinosyomin/)をお借りして拙文をご提供する機会を頂戴している。

私などは、年がら年中、「大規模な財政金融政策だ」、「国債をもっと刷れ、政府紙幣も活用しろ」と叫んだり、リフレ派や緊縮財政派(+エセ分配一派も)の悪口を言ったりして、“自分基準の言論活動”に勤しんでいるわけだが、いわゆるソーシャルメディアを言論活動に使うのは、実際は極めて少数派に過ぎない。

ちょっと古いデータだが、総務省が2008年に行った調査によると、日本国内で公開されているブログの総数は、およそ1700万もあったそうだが、そのうち稼働しているのは300万ほど、約18%に過ぎず、記事総数でカウントすると、約13億本のうち8億本が読まれていないそうだ。

また、総務省「次世代ICT社会の実現がもたらす可能性に関する調査」(平成23年)によると、ブログやSNSの利用目的で最も多かったのは、「知りたいことについての情報を探すため(ブログで40.2%)」で、次いで「同じ趣味・思考を持つ人を探すため(同39.8%)」、「知人とのコミュニケーションのため(同11.1%)」という結果だった。

ちなみに、言論活動っぽい範疇での活用割合(「社会・地域コミュニティの問題解決等」という回答)は、ブログで2.5%、フェイスブックなどで0.9%、ツイッターで2.3%と、ほんの僅かに過ぎなかった。

http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc232320.html

ソーシャルメディアの出現により、情報発信の多角化や多様化が実現した。これは、情報革命だ!」なんて大騒ぎするのは、いささか勇み足というもので、大半は、ベッキーときのこ頭のクズのように、存在価値マイナス以下のしょーもない文字の羅列に費やされているのが現実だろう。

さて、ブログやSNSを通じて、社会的あるいは経済的な思想や持論を世に発信している論者の中には、持説が世間になかなか浸透せず、それどころか、政治や世論の流れが真反対の方向に爆走するのを見て、表現しがたい無力感や徒労感に苛まれている方も多いことだろう。

“それもこれも、国民や大衆が愚かで無知なせいだ、このまま言論活動を続けることに意味があるのか”、と愚痴をこぼしたくなる気持ちもよく解かる。

前置きが長くなったが、今回のコラムでは、「大衆は愚かな存在なのか」、「愚かだとして、そういった大衆相手に行う言論活動は無意味なのか」という2点に私見を述べたい。

先ず、「“大衆の愚かさ”に関してお前はどう思うのか?」と問われたなら、私は迷わず、こう答える。

「大衆は、社会的規範を順守し、各々が与えられた地位や職業などの役割においては、おおむねまじめで勤勉である。しかし、こと、安全保障、経済、エネルギー、食糧等といった社会構造の骨格となる諸課題に関しては、おおよそ無関心で、自分たちの立場を悪くするような愚かしい選択を繰り返してばかりいる。その思考や行動原理はミクロ的視野に支配され、マクロ的視野でモノを考えようとする気が無い。つまり、総じて愚かな存在である」と。

私とて、ブログでエラそうな高説をぶってはいるが、所詮は大衆を構成する一員に過ぎない。

しかし、自己の利益を侵害することが明らかな政策ばかりを、わざわざ積極的に選択し続けるような愚を犯すことはない。

選挙のたびにマスコミが行う世論調査では、必ずと言ってよいほど「経済問題や社会保障の問題を解決してほしい」、「景気を回復させてほしい」という回答が上位を占めるが、回答した大衆が、“経済や景気の意味”を理解しているようには思えないし、理解するための努力をする様子もまったく見受けられない。

“じゃあ、景気を回復させるにはどうすべきか?”と彼らに問うと、「カルロス・ゴーンのような改革者が政治家になるべきだ」、「日本経済が不調なのは、アップルやグーグルみたいな革新的な企業がいないからだ」、「政治はムダ遣いを止めろ」、「TPPをステップにし、国際化の波に乗り遅れるな」などといった小学生みたいな答えが返ってくることだろう。

経営と経済とを混同し、改革や供給サイドが経済を牽引するという古びた因習に囚われたまま一向に進化する気配がない。

彼らは、「改革・変化・グローバル化・革新」みたいなカッコイイ言葉に乗せられ、自らの実利を簡単に手放そうとする。

こうして、「緊縮→改革→デフレ→不況→緊縮…」という無限ループの罠に嵌り続けるのだが、それが自分たちの生活や雇用の破壊につながることに気付こうともしない。

20年も不況が続いているのだから、いい加減に自分たちの発想が間違っているのではないかと疑うべきだが、彼らは、地獄への一本道を前進する考えを変える気はないようだ。

それどころか、景気が悪いのは改革が足りないせいだ、という前提条件の下で、郵便局員→公務員→土建業者→農家といった具合に、次々に悪人を仕立て上げ、魔女狩りに勤しむありさまだから、呆れるよりほかない。

自らの生活に害を及ぼす政策を選択し続けておきながら、自身の不徳を絶対に認めようとせず、全ての責を外部や世間に押し付けようとする大衆に対しては、「救いようのない愚か者」だとしか言い表せない。

次に、「大衆が愚か者だとして、そういった大衆相手に行う言論活動は無意味なのか」という点について述べたい。

最初に結論を述べると、「言論活動の目的を“持説を普及させて大衆の意識を変え、それを政治や政策に反映させること”のみに限定してしまうと、せっかくの努力が無意味に成り得る」というものだ。

言論活動とは、自身が信じる特定の思想や信条を広く発信する行為だが、それを行う多くの論者は、持論が大衆に浸透し、その支持を得て政治や政策に反映され、やがて社会構造や経済構造に変化を与える、という構図を描いていると思う。

しかし、実際に、“言論の発信→大衆の支持→選挙へ影響→政策に反映→世の中が変化”という経路を辿る事例なんて極めて稀で、それを現実に成し得るのは、現時点では、巨大な情報ネットワークと発信能力を有するマスメディア以外には無理だろう。

例えば、オバマ大統領誕生の際の草の根運動や小泉(バカ)政権誕生時の熱狂をこうした公式に当て嵌める方も多いだろうが、私は、こうした事例も、単にマスコミ報道に煽られ、大衆が先導されたに過ぎないと考えている。

特定の論者の思想が大衆に広がって彼らが政権の座に就いたわけではなく、 “史上初の黒人大統領の誕生”、“自民党をぶっ壊すと叫ぶ改革者を新たなリーダーに”というマスコミ発のエポックメーキング活動に大衆が熱狂させられただけのことだろう。

では、現実に実行されている政策は、どのような支持や経路を得て誕生したのかといえば、政治や財界、官僚、それらの周囲に寄生するステークホルダーという極めて限定的なインナーサークルに携わる連中の思考が具現化されただけに過ぎない。

小泉バカ政権の誕生や構造改革(改悪)フィーバーも、マスコミがゼロから創造し、それが大衆の支持を得た、というよりも、むしろ、大衆の多くが、元々、深層心理内に抱えていた、社会的な権益(実際は大した権益でもないのだが…)を持つ者に対するルサンチマンや閉塞感の打開策として改革や変革を安易に選択しがちな無責任な態度に、マスコミが火を点けた、という方が正確だろう。

デフレ不況の発生と歩みを共にし、政策のメインストリームを形成してきた新自由主義や緊縮主義、構造改革主義的な政策も、特定の言論活動が大衆の支持を得て発生した、というよりも、元々、大衆の思考や世論に内在していた、あるいは、ビルドインされていた旧弊に対するルサンチマンが、マスコミに煽られて発露しただけのことだ。

私がよく批判するリフレ派の金融緩和絶対論なども、世間における支持率や浸透率は1%にも満たないだろうが、アベノミクスの一環として堂々と実行されている。

物価目標を悉く反故にしても、総裁や副総裁の首が飛ぶこともない。

これなども、決して、リフレ派の論者の主張が世に受け容れられ、政策に反映されたわけではなかろう。

要は、タイミングだけの問題なのだ。

個々の論者やブロガーの発信力など、所詮は微々たるものだ。

現実は、“言論の発信→大衆の支持→選挙へ影響→政策に反映→世の中が変化”というイメージどおりには動いてくれない。

大衆という生き物は、総じて、社会の変革に無関心で他人任せである。

そして、この“無関心”が、我々が想像する以上に、社会の前進を阻む重たい“アンカー”としてマイナスの機能を果たしている。

こうした重たいアンカーに縛り付けられた停滞した社会を動かすには、自己の努力以外の何らかのモーメントが必要になる。

自力のみで動かすのが、もはや不可能に近い“大衆というとてつもなく重たいアンカーに縛られた社会構造“を無理やり動かそうとするよりも、もっと梃子の原理を活用する方が簡単かもしれない。

では、“大衆への言論活動は無意味で、やり続けても仕方がない”という結論になるかといえば、そうではない。

“何をやっても世の中は変えられない、それなら無意味な活動なんて止めてしまえ”とばかりに言論活動を放棄すべきではないし、その必要もない、と明言しておきたい。

無料で発信できるツールが十分に揃っているのだから、活動の意味の有無は各自の判断に任せるとして、どんどん活用して持論を世に問うべきだろう。

そもそも、言論活動は、「意味がある」からやるべきものなのか?

それは、自分の想いと現実の政策や世論のうねりとの乖離に憤りを感じ、悪化する一方の世情を憂いて持論を世に問いたいという強烈な心情に突き動かされて自発的に行うものであり、意味や成果の有無を問うような筋合いのものではないだろう。

もっとシンプルに、自身の抑えきれぬ感情を発露する、という動機だけで良いのではないか。

言論活動を実践するうえで最も忌むべき行為や態度は、いつまでも変わらぬ現実に業を煮やしてコロリと変節し、持説を曲げてまで世論や強者に阿ったり、過去の自分と決別するために、それまで同調していた論者に無理やり噛みついたりすることだろう。

こういった類いの“賤しい転びバテレン”に堕ちぬよう心掛けたいものである。