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うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

豆を惜しんで熱気を萎ませる愚行

経済・政治・国際

ついこの間、クリスマスや正月商品がスーパーの棚を埋め尽くしていたかと思えば、もう節分用の豆やお菓子が所狭しと並べられている。

節分といえば、成田山新勝寺の節分会が有名で、「国土安穏・万民豊楽・五穀豊穣・転禍為福」を祈願し、大相撲の力士や芸能人が境内の上から観衆に向かって豆まきする姿が、いつもTVで報じられている。

集まった観衆は、境内から大量にバラまかれる剣守や大豆、落花生などを拾おうと、右往左往しながら必死に手を伸ばして宙を舞うお守りや豆を何とか手にしようとし、会場は大変な熱気に包まれている。

筆者は、成田山に行ったことはないが、この映像を見るたびに、幼い頃に近所で行われた上棟式(棟上げ)の光景を思い出す。

上棟式は、家を建てるときに柱や梁など骨組みができて棟木を上げるに際して行う儀式で、施主や関係者が柱の上に上り、縁起物として、大小のお餅や5円玉などを撒く風習である。

そこには近隣の住民や子供らが集まり、上からバラまかれる餅や硬貨を拾おうと、エサを取り合う猿のように恥も外聞もなく餅拾いに熱狂していた。

(中には、開いた傘を逆さまに持ち、餅をキャッチしようとしていたツワモノもいた)

こうした光景は、経済活動の熱気に、どこか通ずるものがある。

バラまかれる豆や餅は、実体経済における商機や仕事の発注、雇用等に喩えられ、それを手にしようと群がる人々の動きや熱量は、投資や消費の活発度に模して考えられるだろう。

バラまかれる豆や餅の量が多ければ多いほど、また、その範囲が広ければ広いほど、群衆の熱気は高まって拾集を狙った活動量は多くなり、会場のボルテージも更に上がろうというものだ。

もし、撒かれる豆の量がほんの僅かで、撒く範囲も限定されていたり、はたまた、撒いた豆はレプリカだから後で返却するよう群衆に伝えたりしたなら、会場はどうなるだろうか。

今更会場に駆けつけても、もう自分が撒かれた豆を拾えるチャンスはないと諦めるか、どうせ返さなければならないのなら、面倒くさいから行くのを止めにしようと思うことだろう。

これでは、せっかく用意した会場も閑古鳥の群れに包まれるだけだ。

マクロ経済の仕組みも同じようなものだろう。

政界や財界の連中は、今年の景気回復を個人消費や企業の設備投資の活性化に託そうとしているが、出てくる政策はといえば、税制をチョコチョコ弄ったり、極めて限定的かつ一時的な給付金を撒いたりする程度で、消費や投資の活性化を促すには、圧倒的に力不足なものばかりだ。

あたかも、落花生の種を撒いて高級メロンの収穫を期待するような、まことに図々しい皮算用だと言えよう。

高級果実が欲しければ、それに見合った種を撒き、糖度を高めるための施肥や管理の手間を掛ける必要があることくらい小学生でも解かりそうなものだ。

長らく低迷した個人消費や設備投資に火を点けるには何が必要か、常識で判断すべきだろう。

家計や企業は、「改革」とか「再建」という“きれいごと”にカネを使うことはない。

バラマキによるモラル低下を懸念する向きもあるだろうが、清貧に甘んじて冬眠させられるよりも、多少の混沌や秩序の乱れの中でも旺盛なエネルギーを発していられる社会の方が遥かにマシだ。

彼らの欲求を大いに刺激し、実需を動かすためには、彼らが最も欲するものを提供してやらねばなるまい。

それは、「(収益の取れる)仕事」であり「(まともな条件の)雇用」であろう。

つまり、最終的な売上や所得(=消費や投資に直接的に使えるお金)の獲得に直結する機会の提供である。

仕事や雇用を介して技術力やサービス提供力の維持向上を図るのも良いし、急を要する部分には給付の形で直接分配するのも良い。(分配オンリーというバカは論外だが…)

こうした機会や商機を、どんどんバラまく(きれいな言葉で修飾するなら「創出する」)ことが、家計や企業の意欲を刺激し、経済の善循環につながるのだ。

家計が増税で苦しんでいるなら、減税や社保料負担の軽減などで対応すればよい。

企業が受注不足で苦しんでいるなら、公共事業量の拡大と受注条件緩和で商機を提供すればよい。

突き詰めていけば、家計も企業も、最終的には“消費や投資に直接的に使えるお金”が欲しいだけのことだから、何も難しく考える必要はないはずだろう。