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うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

神聖視すべきは、通貨の信認ではなく、国民の生活であるべき

【政府与党の最重要課題は、経済成長ではなく財政再建
現在、政府の経済財政諮問会議自民党財政再建に関する特命委員会では、財政再建のための聖域なき支出削減と増税強化が盛んに議論されており、政府に与党、財務省を加えた緊縮に向けた頑強な鉄のトライアングルが形成されている。

デフレ脱却の渦中にありながら、常識では理解できない逆噴射政策が何の反対もなくスルーされているのも、「日本の国債発行水準は世界的に見ても異常」とか「このままでは、財政破綻により通貨の信認が低下し、制御できないハイパーインフレを招く」という妄言が国民の信認を得ているからだろう。

【「通貨の信認」を担保するもの】
では、財政破綻論者が好んで使う「通貨の信認」とは、いったい何によってもたらされるのだろうか。

通常、信認された通貨とは、内にあっては適度な物価水準を維持し、外にあっては貿易の際に国際決済通貨(米ドル、ユーロ、円、ポンド、スイスフラン等)として通用するような通貨を指すと思われる。

しかし、不換紙幣(金等の貴金属との兌換を保証しない通貨)が一般化した現代では、各国が発行する通貨の価値は、何によって担保あるいは保証されているのか、国際決済通貨たる通貨は、いかにしてハードカレンシー足り得たのか、極めて不明瞭である。

ある者は、天然資源(鉱物資源や食糧等)の豊富さだと言い、またある者は、工業的な生産力の高さだという、この他にも、対外資産とか軍事力だと主張する者もいるようなありさまで、ハードカレンシーと他の通貨を分別する明確な基準は定かではない。

ロシアや中国、オーストラリア、ブラジルのように軍事大国、対外純債権国、資源大国であっても通貨が不安定な国もあれば、スイスやイギリスのように対外純債権と原油くらいしか取り柄がなかったり(イギリスは対外純債務国)、アメリカのように世界最大の対外純債務国のくせに自国の通貨がハードカレンシーとして流通している不思議な国もある。

通貨の国際的信認の源泉が何処にあるのか、正直に言って筆者にも解からないが、少なくとも、厳格な法律に基づく公正な商行為が保証される経済環境の整備くらいは必要だろう。

【インフレ恐怖症患者が拘る通貨の信認論】
さて、先に述べたように、通貨の信認低下やハイパーインフレに対するあらぬ恐怖心が、我が国における適切な財政金融政策の実行を阻んできたと言ってよいのだが、こうした悪癖が国民に指示され続けてきたのも、人々の通貨に対する認識や常識が錆びついたままになっているからだろう。
多くの人々の経済や通貨に対する感覚の時計の針は、遠い過去に起こった高インフレ期の時代で止まったままだ。

【財政政策の補助エンジンとして政府紙幣活用】
筆者も、エントリーを書くたびに壊れた鳩時計のように「大規模かつ長期的な財政政策」を断行すべきと叫んでいるが、それには二つの方法がある。

一つ目は、国債増発による積極的な財政政策であり、日銀による異次元緩和の後押しもあって国債の引き受け環境も申し分なく、これこそが成長に向けた経済政策の王道というべきだろう。

二つ目は、政府紙幣のような通貨発行益を活用した大規模な財政政策である。

政府紙幣については、2003年に、アメリカのスティグリッツ教授(ノーベル経済学賞受賞者)が日経新聞主催のセミナーで、その活用を提案して話題になったことがあるものの、経済学界隈では、いわゆる“禁じ手”扱いされる類の奇手と言って差し支えない。
そもそも、ほとんどの人々は、政府紙幣の存在そのものを知らないだろう。

政府紙幣に関する論考】
政府紙幣に関しては、滋賀大学経済学部の小栗教授(当時)による「政府紙幣の本質について~中央銀行券との比較を中心に~」という論文がある。
論文の内容は、総じて政府紙幣に対して否定的であり、
政府紙幣中央銀行券は、同じ不換紙幣であっても全く質が異なる
政府紙幣によるヘリコプター・マネーの実行は、中央銀行制度を生み出した歴史を否定する危険な行為
政府紙幣の過度な発行は、通貨の信認を棄損し、ハイパーインフレを招きかねない
などと結論付けている。

小栗氏は、論文の中で、他の4人の識者の意見を交えながら、政府紙幣の本質や中央銀行券との違いを明示している。

その違いとは、おおまかに三点に集約される。

中央銀行券と政府紙幣の違い~信用関係の有無~】
一点目の違いは、債権・債務等の信用関係の有無である。

これについては、「現代の中央銀行が銀行券を発行する場合は、その見返りとして手形、債券等の保証物件を取得するので、これを通じて中央銀行は外部との間で信用(債権・債務)関係を形成している」が、「政府紙幣は債務性を伴わず、直接的に購買手段として流通に投入される」と説明し、国債等の債権に裏付けられて発行された中央銀行券と比べて、外部との信用関係(債権・債務)も伴わない単なる不換紙幣である政府紙幣の存在は、信用通貨発行の原則に反し、国家による通貨発行の規律を揺るがせかねない、という趣旨の主張を展開している。

端的に言えば、債権・債務の関係から切り離され、国家が好き放題に発行できるような卑しい通貨は発行すべきではない、と言いたいのだろう。

だが、中央銀行券の価値を担保するはずの債権とは国債のことを指しており、元を糺せば国の信用=政府の信用に集約される。
つまり、中央銀行券を担保するのは、国債=政府の信用ということになり、政府の信用をバックに発行される政府紙幣と何ら変わりがないではないか。

また、「中央銀行券を含む銀行券は金融取引を通じてしか、流通に投じられることはない。(中略)ということは誰かが負債を負うことによってしか、の意味であるから、銀行券の発行者はそのような負債を債権として、自らの負債(銀行券)と交換に取得し、リスクを負う」と述べ、日銀が、発行した銀行券をなぜか負債勘定に計上するのを引き合いに出して、規律性の重要さを説こうとする。

【日銀はリスクとは無関係の存在】
しかし、日銀が銀行券発行によるリスクを負っているというのは、単なる迷信にすぎない。
確かに、日銀は、発行した銀行券を負債勘定に計上しているが、日銀券が不換紙幣である以上、負債であるはずの日銀券を何と兌換する(債務を返済する)つもりなのか。

現代では、兌換のための金銀など保有していないから、国債のような債権か紙幣を刷って返済するしかない。
また、国債といえども、元を手繰れば“円=日銀券”に行きつくから、結局、日銀券を返済するには日銀券を発行するしかない、要するに、日銀券を負債勘定するなんて、あくまで形式上の処理に過ぎず、その負債は日銀に何らリスクをもたらすようなものではない、ということだ。

中央銀行券と政府紙幣の違い~発行起源の外生・内生~】
二点目の違いは、両者の発行が外生的か、内生的か、という点だ。

論文では、「国家紙幣(政府紙幣)は商品の価値とは独立に国家権力によって商品経済の外部から紙幣が注入され、直接に財・サービスの購買に充てられるものであり、本来、永続し得ないものである。他方、信用貨幣(※中央銀行券のこと)は商品の本来持つ価値が債務証書として分離されて現れたものであり、国家紙幣とは全く質の異なるものである」と指摘している。

そして、政府紙幣は商品経済の外部から無理矢理導入された(貨幣外生論)ものであり、そうした異物が無制限にバラ撒かれると通貨の信認が著しく棄損される、という趣旨の主張を展開している。

【通貨の裏付けは空気みたいなもの】
だが、日本のみならず、おおよそ先進国の国民なら、中央銀行券の裏付けとか商品経済との関係なんかを気にしてお金を使うっている変わり者なんて、誰ひとりとしていないだろう。
欲しいものがあり、財布にお金さえ入っていれば、通貨の裏付けが何かなんて、いちいち気にせずに買い物をするだけだ。
現に、全国民が、政府発行の硬貨を毎日のように使っているではないか。
500円玉の信認を疑って、紙幣に両替しようとするバカなんて一度もお目にかかったことがない。

そもそも、政府紙幣の話をする時に、「政府紙幣=無制限なバラマキ」という前提で語ろうとすること自体が明らかなミスリードであろう。
政府紙幣の活用を訴える論者は、デフレ脱却の起爆剤として、あるいは、大規模な自然災害により破壊された社会資本の再構築のため、国家の根幹に係る社会基盤の不公正を是正するために必要な財源を調達すべきと主張しているのであって、太平洋を埋め尽くすほどの政府紙幣を発行しろなどと述べている者なんて一人もいない。

中央銀行券と政府紙幣の違い~還流規則の有無~】
最後に、三点目の違いは、実体経済や金融経済への還流規則の有無についてである。

この点について、論文では、19世紀のインドの銀行家であるフラートンの論考を引用して、「銀行券を発行するのは銀行業者であるが、しかしそれを流通さすのは公衆一般である。だから公衆の協力を俟たなければ、それを発行する力も意思もともに無益である」と述べ、さらに、「銀行券は貸付けることによって流通に送り込まれるから、そのことは銀行券がまず流通の必要にもとづいて発行されるという関係を表わしている。(中略)また貸付の返済に当たっては銀行券でそれがなされる限り、紙券は流通から姿を消すことになる。こうして銀行券については発行銀行がその流通量を自由に増大させえない」とし、中央銀行券の発行量が一定の規律に縛られることを評価している。

一方で、「政府紙幣の場合は、発行した政府紙幣で直接的に財・サービスを購入するので、その時点で取引は完了する。将来の返済条件付きの資金供給ではない。供給された政府紙幣が還流することもあるが、それは当初の取引とは全く関係なく、政府紙幣所持者の独自の要因に基づくものである。つまり、政府紙幣は発行と還流が結びついたものでなく、独立している」とし、政府紙幣は一旦発行すると、永遠に経済の中を還流し続けるため、過度なインフレと結びつきやすいと懸念している。

【デフレ期には信用創造機能が停滞しがち】
率直に言って、重度のインフレ恐怖症患者による中央銀行券擁護論だとしか思えない。

特に、“銀行券がまず流通の必要にもとづいて発行される”の部分は、インフレ期の成長経済を前提とした前時代的思考であり、長期デフレにより金融機関の信用創造機能がクラッシュ気味の現代においては、もはや大きな意味を持つことはない。
その“流通の必要”とやらが、本当にあるのなら、市中銀行の預貸差が220兆円以上にも膨らむはずがないだろう。

発行した政府紙幣の量が気にかかるなら、景気過熱期に増税でもして、集めた紙幣を国債整理基金や大規模災害対策基金にでも積み立てておけばよい。

論文では、結びの部分で、「政府紙幣の発行は、信用関係の中で生成、消滅する信用通貨の基本原則を破るものであり、歴史を大きく元に戻すもの」と強く警戒しつつも、「仮に政府紙幣を発行するとしても、それは実質的に国債の発行かあるいは無利子・無期限国債日本銀行引受けと同じもの」とも述べている。
実質的に国債と同じものなら、発行に何の問題もないはずだが、いったい何を主張したかったのだろうか。

【国民の責に帰すべきでない負の遺産を整理すべき】
我が国は、20年もの長期デフレに見舞われ、多くの国民や企業が塗炭の苦しみを味わってきた。
しかも、その間に断行された誤った経済政策や構造改革騒ぎ、行き過ぎた規制緩和により、人口構成はいびつに歪み、社会基盤や社会制度は完膚なきまでに破壊され、技術力を養成すべき雇用の場は国外に逃避してしまった。
その帰結が、少子高齢化や生産年齢人口の減少であり、年金・医療保険制度の瓦解であり、社会資本の老朽化であり、失業者や非正規雇用の増大である。

こうした国家の屋台骨を揺るがす負の遺産は、果たして、国民の責に帰すべき債務なのだろうか。
不況で弱り切った経済状態下で、積りに積もったゴミの山をコツコツ片づけるべきなのだろうか。

【社会的不公正是正のための財源としての活用】
筆者は、そうは思わない。

日本という国の置かれた事態が火急のものであればあるほど、たとえ、国民が支持してきたという事情があるとはいえ、歴代の政府が垂れ流した負の遺産をコツコツ返済する余裕など残されていない。
日本国民が将来を見据え、未来に向かって力強く成長していくためには、膨大に溜まった負の遺産を可能な限り、迅速かつ効率的に処理していく必要がある。

公的セクターでの正規雇用の拡大、社会保険料の国庫負担割合の引上げ、年金・医療保険への国費投入、老朽化した社会資本の更新費用の負担、将来の教育投資拡大に向けた教員の大幅な増員、教育水準や科学技術力向上のための大学予算の充実、痛みきった地方経済立て直しのための地方交付税の大幅な増額、警察・消防・自衛隊のレスキュー部門を統合し国民の生命を守る新たな総合レスキュー体制の新設、増加する自然災害を未然に防ぐための総合防災対策組織の新設等々、予算を使うべき分野は、数え上げればきりがないほどいくらでもある。

こうした国民生活の向上に資すべき事業を前向きに推進するための財源として、政府紙幣を躊躇わずに積極的に活用すべきである。
使えるカネをケチった挙句に、再生不能なレベルにまで経済が破壊されてしまえば、通貨の信認なんて呑気なことを言っていた過去を懐かしまざるを得ないことになる。
このまま生活レベルを落とし続けて発展途上国化したくないのなら、通貨の意味や役割を冷静に見つめ直すべきだろう。


(※)隔週日曜日に「進撃の庶民」というブログにコラムを寄稿しています。
http://ameblo.jp/shingekinosyomin/