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うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

リフレ派は「貨幣」の意味を誤魔化さないように!

もうすぐ4月が終わり、2013年春に放たれた黒田バズーカ第一弾の結果を総括する時期が到来した。

「2年で2%の物価上昇目標を掲げマネタリーベースを2倍に増やす」という大規模な異次元金融緩和政策を採り、意味不明であった日銀券ルールを廃して、インフレ・ターゲット政策を初めて実践に移した意義は大きい。

異次元緩和により、国債金利は低金利水準を維持(国債の信認が向上)し、日銀による国債保有割合が25%ほどに達して実質的な政府債務を減少させたことは評価に値する。

しかし、肝心の実体経済に与えた影響はというと、行き過ぎた円安と“実感なき株高”を演出しただけで、大した効果はなかった。

金融政策の根幹である「インフレ“期待”」による実需は発生せず、国民の間に「インフレ“不安”」を撒き散らし、より一層財布の紐を固く締めさせただけに終わった。

期待の大型新人の加入によりチームの連敗は止まったが、観客動員数は減る一方、といったところか。

やはり、財政政策抜きの金融政策一本足打法には、深刻なデフレ不況を招いた緊縮財政路線をベースとする構造改革主義を打破する力は無かったようだ。

だが、頑なに金融政策の神通力を信奉するリフレ派や株高のおこぼれを狙う市場関係者の間には、更なる追加金融緩和に期待する声が大きい。

昨年10月の黒田バズーカ第二弾のようなサプライズを期待しているようだが、彼らの興味の対象は、あくまで、物価や株価というシンボリックな経済指標の動きであり、実体経済の改善なんて完全に視野外に置かれている。

自らの学説の正当性を証明するための手段、あるいは、一部の層の利益獲得の手段として悪用されるだけなら、異次元金融緩和政策は国民の信任を得ることはできない。

やがて、実感なき株高と過度な円安による生活必需品などの物価高騰を招いた元凶として、インフレ・ターゲット政策自体が失策だと罵られる日が来るだろう。

さて、こうした持説の危機を前にしても、リフレ派の狂信者どもは、相変わらず金融政策万能論を振りまいているようだ。

「デフレの原因は貨幣現象であって需要不足ではない」、「デフレは貨幣に対する需要増加である」、「貨幣需要が大きすぎて貨幣価値が上昇する(=デフレ)。だから、中央銀行から貨幣を供給して貨幣価値を減らすのが量的緩和によるインフレ誘導の本質だ」と愚にもつかない書生論を強弁している。

リフレ派の理論や思考は、常に、問題の根幹ではなく、そこから派生する一部の現象にフォーカスを当て、それを誇大に問題視するのが特徴だ。

政府の経済政策ではなく日銀を不況の主犯に祭り上げて批判すること、国民所得の向上ではなく物価上昇率に拘ること、過大な貨幣需要に対して所得ルート(政府支出)ではなく借金ルート(信用創造)で対応しようとすること、等々、彼らの主張は、どこか本質からズレている感が否めない。

ターゲットを正面から狙おうとせず、回りくどい上に、どう考えても効果的ではない方法を敢えて用いようとする。

リフレ派は、「貨幣現象」という言葉の貨幣の定義を、「所得になるお金」から「借りて使うお金(=借金)」まで曖昧に用いており、議論に応じて都合よく使う。

元来、構造改革臭の強い彼らは、財政政策に強い嫌悪感を抱いており、日ごろは「貨幣=借りて使うお金」という前提で論を張っている。

しかし、金融政策の効果が疑問視され、あちこちから批判を浴びると、急に貨幣の定義を「所得になるお金」にまで拡大させ、「リフレ派は財政政策を否定していない。どうせやるなら、利益誘導を誘発する公共事業よりも、減税が効果的だ」と逃げ口上を叫びだす。

そして、議論が終わった途端にピタリと減税を主張するのを止めてしまう。

「デフレは貨幣に対する需要増加(=流動性選好)」という言い方も本質から目を逸らした表現だ。

デフレ不況に慄く人々がモノやサービスを買わずに貯蓄に励む姿を指摘したつもりだろうが、所得不足からやむを得ず貯蓄、あるいは、消費を抑制せざるを得ない人々のマインドを変え、貨幣(所得になるお金)をモノやサービスに向かわせるための方策が、まったくの見当違いなのだ。

リフレ派は「貨幣需要が大きすぎて貨幣価値が上昇するから、中央銀行から貨幣を供給して貨幣価値を減らす」と自信満々に提言するが、需要が高いはずの「貨幣」は、中央銀行から、国民や企業の財布にではなく、何故か金融機関に供給され、所得になるお金ではなく、借りて使うお金に変換されてしまう。

この不況でモノやサービスの需要が落ち込んでいる時期に、好き好んで借金して物価高騰の一翼を担おうとする物好きなど、そうそう居るものではない。

こうした愚策により、貨幣の需要家であるはずの国民や企業が貨幣を得るためのハードルは一層高くなり、実体経済に供給される貨幣量が増えず、結局、貨幣はモノやサービスに向かわずに金融市場に滞留する、つまり、流動性選好がより強まるだけ、という結果に陥ることに、リフレ派の連中は、なぜ気付けないのだろうか。

リフレ派が得意顔で語る「貨幣の価値」なんて言葉は、実体経済における経済活動の結果の一部を切り取った表層に過ぎない。

国民や企業の所得が増えて実体経済が活性化しなければ、貨幣価値が上がった、下がったと識者気取りで評論しても、何の意味もない。

リフレ派は、「貨幣に対する需要増加」を嫌悪するあまり、所得ではなく、先にモノやサービス価格を上昇させて、人々にインフレ不安を抱かせ支出を強要しようとする、つまり、北風政策により、人々を支出に追い立てようとする。

しかも、借りて使うお金を、その追い込み猟の猟犬代わりに使うに至っては、二重の過ちを犯しているとしか言えない。

恐らく、リフレ政策に追い立てられた人々は、支出を増やすどころか、より防御を固めて「貯蓄という駆け込み寺」に逃げ込むだけだろう。

リフレ派は、貨幣とモノやサービスの関係に対する考察やその交換速度を上げるための方策を根本から間違えている。

人々の貨幣需要が大きすぎるなら、貨幣の対岸にあるモノやサービスの価格をいじくり回すのではなく、ストレートに貨幣(使えるお金)供給量を増やし、その需要を満たしてやればよい。

十分な量の貨幣を得た人々は、自身の所得に対する信任を高め、貨幣からモノやサービスへの交換を活発化させるだろう。

やがて、それがモノやサービス価格の上昇をもたらし、相対的な意味での貨幣価値の低減とやらが生じるのである。

リフレ派の連中が、経済政策に関して常に的外れのアプローチをするのは、財政政策という経済政策の根幹に対する忌避感を捨てきれないからだろう。

学識派を気取る彼らの心の奥底には、国や政府に甘える市井の人々や中小企業に対する嫌悪感が渦巻いている。

だからこそ、景気を直接刺激して(彼ら目線でいうところの)怠け者に楽をさせるのではなく、物価高騰と借金の押し付けという重荷を背負わせようとするのだろう。

世間に対して陰湿な怨恨を抱えた連中に経済政策を任せていては、デフレ脱却など到底成し得るものではない。