読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

有限史観からの脱却を‼︎

前回のエントリーで、格差問題に対する富裕層と中下位層の認識の相違を採り上げたところ、読者の方から次のようなコメントを頂戴した。

『ひきずり降ろされる恐怖を持っている今の富裕層といわれる人が、公共事業内需拡大、経済成長をなぜ否定するかですね。経済成長して国が豊かになれば、当然自分たちの取り分も大きいはずで、しかも国民全体が豊かになるわけだから、ひきずり降ろされる心配は減る。しかも公共事業なら、使うのは政府のお金であって、自分のふところは傷まない。』

これは当然の疑問であり、筆者が持説を周囲の人々に説明する際にも、実は同趣旨の質問をよくいただいている。

ご指摘どおり、いわゆる富裕層とかエリート層とされる人々が、なぜ、国や他者が豊かになり自身の取り分も増えるような経済政策を嫌うのか、筆者も常々疑問に思っていた。

富裕層やエリート層独特の他者に対する相対的優越感の保持に拘るあまり、たとえ自分の懐や財布が傷まなくとも、財政政策により(自分目線では)大した努力もしていない中下位層の連中が楽をするのは許せない、という歪んだ嫉妬心が影響しているのではないかと推測していた。

だが、上記のご指摘に対して、別の方から、『おそらく彼らは、富と言うものが有限だと考えているのではないでしょうか。かつての大国が金銀、領土、人間(奴隷)を奪い合ったように。社会そのものを成長・発展・進歩させていくと言う思考が欠けているのではないでしょうか。』という非常に的確なコメントをいただき、筆者も溜飲の降りる思いがした。

確かに、富や成長を有限だと考えるような人間なら、経済のパイを一定と捉えて「経済活動=限られたパイの中での富や資源の収奪合戦」だと定義付けていても不思議ではない。

多くの国民は、日常生活を送る中で人生とか自分の給料や小遣い、会社の予算等々、時間軸あるいは金額的な側面から常に何らかの制約や限界があることを意識して活動している。このため、あらゆる事象や物事には、時間的な終焉や金額的な上限・限界があるものだと思い込まされ、自らが創り上げた限界という名のボックスの範囲でしか物事を捉えられないようになる。

こうした“有限史観”に染まり切った人間は、国家の歴史を人生に、国家の財政を家計簿に準えることに何の疑問も差し挟むことはない。

ワイドショーを眺めているオバサンみたいに、「もはやこの国は成熟し切っており、成長できない」とか「40万円しか収入のない家庭が借金して90万円も浪費している」などと本気で信じ込んでいる。

“経済成長は不可能”、“経済のパイは有限”というのが彼らの根本思想であり、そこから先は、富裕層なら構造改革や減税、規制緩和を求め、中下位層なら富の再配分を主張し、そこに小さな対立が生じてきたが、多くの場合、構造改革という錦の御旗を振りかざす富裕層が勝利を収めてきた。

では、敗走を重ねてきた中下位層はどうすべきなのだろうか。

国に対して再配分強化政策の実施を強く求めるのも良いし、資産課税の強化を訴えるのも良いだろう。筆者も高額所得者向けの所得税率引上げや大企業や中堅企業向けの法人税率引上げには、諸手を挙げて賛成する。

しかし、経済のパイの上限を固定したまま再配分政策の一本槍戦法に固執していると、恐らく、Aの予算を削ってBに付け替えるような姑息なトレード・オフ論法に取り込まれてしまうだろう。

再配分政策はほったらかしにされて、ムダな公共事業や危険な防衛費を削り社会保障費に充てる、あるいは、膨張する社会保障費を削り企業の競争力強化に充てる、という具合にはぐらかされ、一方の予算を悪者扱いし他に付け替えるような弥縫策が横行することになる。

中下位層間に対立の楔が打たれ、それを巡って同じ階層間で不毛な非難を繰り返す愚に、我々は終止符を打たねばならない。富や資源の収奪合戦に勝者などいないことに気付くべきだろう。

有限史観論や国家衰退論の信奉者は、成長への努力を放棄した怠け者か時代遅れの敗北主義者である。

物理的な制約から国家や経済の衰退や停滞を嘆かざるを得ない時代は、とうの昔に終わっている。

高度かつ膨大な供給能力を備えた近代国家において、国家の老化を心配する必要などない。国家が老いるのではなく、国家が老いたと勝手に決めつける愚か者自身の思考能力や創造力が衰えているだけなのだ。

国家は常に成長著しい若者であり、その成長が止まることはない。

今回いただいたコメントのとおり、国民の自発的な活動や努力が実るよう国家が適切な経済政策を実行し、社会や経済そのものを成長・発展させることこそが重要だろう。