うずらのブログ

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技術力は国を支える柱

先日、とあるテレ部番組で戦国時代を彩る合戦として有名な「長篠の戦い」の特集番組をやっていた。

織田信長とか坂本龍馬が大嫌いな筆者は、この手の“信長ヨイショ番組”をまともに観る気にはならず、パソコンをいじくりながら横目で眺めていた。

長篠の戦いといえば、1575年に当時の三河国長篠城を巡り、織田信長が、押し寄せる武田勝頼軍を有名な鉄砲の三段撃ち戦法を用いて撃退したことで知られる。(三段撃ちに関しては史実ではないとの指摘もある)

戦国時代に急速に普及した鉄砲(火縄銃)が日本に伝来したのは1543年で、台風の直撃を受けて難破した中国戦に乗船していたポルトガル人のフランシスコ・ゼイモトが、種子島に漂着したことが契機であることは有名なエピソードだろう。

漂着した彼らを見つけた種子島の住民は、生まれて初めて目にする外国人を前にしても臆することなく、砂浜に画を描いて筆談し意思の疎通に努めたそうだ。

そして、彼らが持っていた鉄砲に興味を持った時の領主の種子島時堯は、金2,000両を投じてこれを譲り受け(決して強奪するのではなく、漂着民にきちんと対価を払うところがいかにも日本人らしい)、島内の鍛冶屋に命じて鉄砲を複製させた。

命を受けた鍛冶屋たちは、当初こそネジの切り方に悩んだり、暴発事故に遭遇したりしながらも、驚くことに、翌年には早くも実戦(屋久島奪還作戦)で使用されるまでに仕上げている。

その後、鉄砲の制作技術は瞬く間に全国に伝播し、滋賀県の国友や大阪府の堺などで大量生産されるようになり、鉄砲伝来からわずか32年後に、前述のとおり戦国時代でも指折りの合戦の雌雄を決する新兵器として使われるまでになった。

また、一説には、戦国末期には国内に50万丁も普及し、世界最大の銃保有国になっていたと言われている。

ひとことで鉄砲の複製と言ってしまえば単純に聞こえるが、そこには、精密な鋳鍛造技術や切削加工など高度な技術力を必要とするほか、火薬の取扱いや射法の開発、戦術の改良などソフト面の充実も欠かせない。

当時の鉄砲の威力は、『口径9mm、火薬量3グラムの火縄銃は距離50mで厚さ48mmの檜の合板に約36mm食い込み背面に亀裂を生じしめ厚さ1mmの鉄板を貫通した。鉄板を2枚重ねにして2mmにしたものについては貫通こそしなかったものの内部に鉄板がめくれ返っており、足軽の胴丸に命中した時には深刻な被害を与えたのではないかとしている。なお、距離30mではいずれの標的も貫通(ウィキペディアより)』したとされ、十分に実戦使用に耐え得るレベルにまで仕上がっていたようだ。

こういった歴史上のエピソードは、ものづくりや技術開発力、供給力の大切さを改めて認識させてくれる。

我々は、普段から、日本が資源に恵まれない国だと信じ込んでいる。

事実、日本の食糧自給率は39%(H25/生産額ベースでは65%)、エネルギー自給率は6%(H24)に過ぎず、日本は資源のない国だと聞いて不思議がる者は殆どいないだろう。

そして、「資源のない国」という常識は、「外貨を稼ぐことの必然性」を生み出し、やがて「輸出振興宿命論」へと昇華していく。

輸出信仰に帰依した信者たちは、内需よりも外需を尊び、同じ車を売るのなら、日本人に売るよりも欧米人に売る方が一段上であるかのような幻想に囚われている。

日本人にレクサスを売っても、“成り金の土建屋が高い車を買いやがって”と蔑まれるだけだが、同じ車をビル・ゲイツやオイルダラーが買えば、“トヨタのハイクオリティを世界が認めた”と称賛するおのぼりさんがウヨウヨいるのが現実だ。

こうした輸出バカの連中は、とにかく外需の獲得にしか興味がなく、大手製造業者やその下請け企業が製造拠点を海外に移転させることをグローバル展開だと称して放任する。

その結果、国内の産業が空洞化しようが、失業者が溢れようが、技術が海外企業に流出しようが、何の痛痒も感じない。

彼らは、「グローバル化は不可逆な世界の潮流」とか「国際的な大競争時代が到来した」とほざきながら、国民の同意を得ずに勝手に国境を取り払い、資本や資金をどんどん海外に流出させてきた。

そして、不勉強な国民は、改革とかグローバル化という言葉を魔法の呪文のようにすんなり受け入れ、ワガママなグローバリストのゴネ得を放任してきたのだ。

昨今の円安基調でも輸出大国ニッポンの業績は思ったほど回復せず、有識者からは、既に多くの企業が海外に生産拠点を移したため為替レートの影響を昔ほど受けなくなったと尤もらしい解説がなされている。

しかし、今年4月に内閣府が発表したマンスリーレポート(海外現地生産の動向と輸出への影響)によると、為替レートの影響を考慮すると海外生産比率は2012年度以降大きく上昇しているとは言えない、との指摘もあり真意のほどは定かではない。

だが、ここで問題なのは、海外生産比率と輸出の関係ではなく、多くの識者やバカマスコミの連中が、日本の製造業者が海外に生産拠点を移したことを、さも当たり前のようにのほほんと語っていることである。

彼らは、それに危機感を覚えるどころか、むしろ喜ばしいことのように語り、円安効果の期待を裏切られて落胆する国民を、競争が足りない、改革が足りないと叱り飛ばす始末だ。

しかし、国民に向かって居丈高にグローバル信仰を説く彼らこそ、忍び寄る危機を察知できない愚かな茹で蛙なのだ。

この手の幼稚なグローバルバカは、競争だ改革だと企業を脅しつけてさえいれば国内の製造業者の技術力は維持向上できると信じて疑わないが、製造や生産に関わるあらゆる技術やノウハウは現場に宿るものなのだ。

いくら本社がグリップしても、現場レベルの精緻なノウハウは、まさにものづくりの現場でしか体得できない。

これからはグローバル化の時代だから工場が海外に移っても仕方ないよね、と鼻をほじっているうちに、国内のベテラン技術者は海外企業に買収され、日本の強みである技術開発力や供給力がどんどん削がれているのだが、幼稚なグローバル化宿命論者は、そういった都合の悪いことから目を背けてしまう。

グローバル化競争の御旗の下に、このまま生産拠点の海外流出を放任してしまえば、日本の供給力は先細りを避けられない。

アメリカとのTPP協議みたいなくだらぬことにうつつを抜かしている暇があれば、資本や資金の海外移転に重税を課すなど、国境を超える資本移動に厳重なペナルティーを科すべきだ。

供給力というものは、最先端の機械設備を持ってくればポンッと出てくるような単純なものではない。

長いスパンをかけてモノづくりの現場に人々が直に携わり、技術力や供給力の養成に努めなければ容易に失われてしまうような極めて繊細な存在でもある。

政治や政策は、一部のこざかしいグローバリストのためにやるものではない。

マクロ的な視野から日本の国力を養成し、国全体を前進させることこそが政治に求められる役割だろう。

今から500年近くも昔の末法の世に生きた先人は、当時の最先端技術が結集した鉄砲を瞬く間に複製したばかりか大量生産に成功し、その卓越した技術力を世界に示して欧州の列強を驚愕させた。

一方、いまや世界最先端の技術力を誇る我々は、自らそれを放棄し、蔑ろにするような愚行を犯そうとしている。

我々は、戦国時代の先人より退化しつつあるのではないか。

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