うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

現実を直視できるかどうかが、経済政策の成否を決める

 日本の経済論壇は、大きく次の3つに大別される

①緊縮財政派(財政破たん懸念派、構造改革派、新自由主義者

②リフレ派(金融政策重視派、金融政策万能派)

③財政・金融政策派(財金ポリシーミックス派、財政政策重視派、金融政策懐疑派)

この20年ほど世の中をリードしてきたのが①の緊縮財政派であることは疑う余地もなく、ご承知のとおり世界でも稀にみる「長期デフレ」を演出してきた。

そして、昨春のアベノミクスによる大胆な金融緩和で、②のリフレ派が経済政策のメインストリームに飛び出してきたが、③の財政・金融派はほぼ放置状態というのが実情だろう。

論者の割合は①が圧倒的多数を占めており、恐らく世論の割合も同じだろう。

また、何かとキワモノ扱いされてきた②も、事実上のインフレターゲット政策が実施され一時期の株高円安効果を演出した功績により一定の市民権を得たといってよいだろう。(ただし、世論的には相変わらず相当マイナーな存在だが…)

一方の③は、相変わらずの公共事業叩きや国の借金問題というカルト思想に世論形成を阻まれて時代遅れのポンコツ扱いされており、これを唱える論者は一部に止まっている。というより、口に去るのも憚られる状況が続いていると言った方が正確か。

だが、実際の色分けはより複雑で、①と②あるいは①~③の間を行き来する「ポジショニング派」の連中も多い。一時、政権の中枢で調子に乗っていた上げ潮派や唐突に政府紙幣活用を提案してすぐに引っ込めたみんなの党の熊手議員(8億円)などが、その最たる例だろう。

(ひたすら財政破たんに怯えて①の殻に閉じこもったままのバカも結構多いが…)

こうした、時勢に応じて意見や主張をコロコロ変える連中に共通するのは、構造改革臭の強い新自由主義的な思考であり、その根底には「日本否定論」や「成長放棄論」が潜んでいる。

彼らは、日本の成長や日本人の潜在能力(ポテンシャル)に極めて懐疑的であり、“少子高齢化する日本はかつてのような高度成長は望めない、これまでのやり方ではダメだ、社会構造の改革や変革が必要だ、グローバル化は避けられない”と日本を死にかけの老人だと決めつけ成長の可能性を否定し、変革以外に生き残る途は残されていないと日本人を威しつける「変革万能論者」である。

今回は、そんな変革万能論者の末席を汚す、とある評論家の論文を取り上げてみる。

かの評論家氏は、持論の金融緩和万能論を死守するためなら意見や主張をコロコロ変えるリフレ系ポジショニング派の見本のような人物であり、その主張にはあちこちに綻びが目立つ。

彼が示した『デフレに関する3つの嘘 公共事業でデフレ脱却、外国人労働者増でデフレ進行は間違い?』(詳しくはこちらを参照http://biz-journal.jp/2014/06/post_5009.html)という論文の主論は、「政策の「レジーム転換」が「期待の転換」をもたらす」という点だ。

評論家氏は、“経済学の知見によれば、人々の「期待の転換」をもたらしたのは政策の「レジーム転換」である”と説き、バブル期の日銀の金融引き締め策や戦後のアメリカのブレトンウッズ体制を例に挙げ、金融政策が人々の将来予想に大きな影響を与えると力説する。

だが、これは金融緩和万能論者が陥りやすい金融政策に関する初歩的な誤りだ。

金融政策に過大な期待や厚い信仰を寄せる者は、金融政策が何時いかなる時でも家計や企業の消費や投資行動に大きな影響を与えることができると勘違いしている。金融を緩和すれば、勝手にインフレ期待が高まり消費や投資が活発になり、金融を引き締めると逆の動きが起こる、つまり、経済活動における一種の並進対称性のようなものが存在すると頑なに信じ込んでいるが、現実は彼らの理想通りには動いてくれない。

日本では遅まきながら始まった金融緩和政策も、既にEUやアメリカでは、随分以前から実行されてきた。件の評論家氏も、日銀の消極的な金融緩和政策を批判する際に、欧米の中央銀行の積極的な金融緩和を好事例として持ち出していたくらいだが、当の欧米先進諸国ではインフレ期待が高まるどころか、低成長・低金利に悩まされ続けており、先般もECBがついにマイナス金利という奇策を選択せざるを得なくなったくらいだ。

残念ながら、金融緩和政策はオールマイティな政策ではなく、効き目を発揮できるゾーンというものが存在する限定的な政策だということだ。

かの論文にも記載のある“旺盛な需要”が存在し、供給力が不足気味で、家計や企業が長期スパンでの成長期待を有している時期がそのゾーンに当たる。

家計や企業の消費・投資活動が十分に温まりつつある時期ならば、少々金融緩和をすればますますドライブがかかり、景気が過熱した時期ならば、金融引き締めを行えば、のぼせたプレーヤーの頭を冷やす効果は十分に見込めるだろう。

だが、経済状態が一旦このストライクゾーンを外れると、金融政策の影響力が急激に衰えを見せ始める。特に、需要が極度に減少しデフレ状態にまで落ち込むと、金融緩和政策は絆創膏程度の役目しか果たせなくなる。

アベノミクスの初期段階で観察された株式市場や資産価格の上昇、または、増税前の駆け込み需要などがディマンドプルであれコストプッシュであれ、人々を消費に向かわせる事象が発生したことは事実だが、一方で、それらを単なるコストアップと捉えて前にも増して消費を手控えた(手控えざるを得なかった)人々が更に多く居たのが現実であり、マクロ的な視点から見れば、効果は良くて相殺された、ひょっとすると減殺されてしまった可能性もある。

ここ数年間、日米欧の中央銀行がアホみたいに市場から既発債を買い取っても、一向に低成長や低金利から脱せていないが、なぜ、膨大な量の金融緩和政策をやっても、家計や企業はインフレ期待を抱かず、消費や投資に走ろうとしないのか。

答えはシンプルだ。家計や企業がカネを使おうとしないのは、雇用や収入が不安定なため懐に十分な資金がなく、将来もそれが増える見通しを立てることができないからに過ぎない。

こういった状況下では、いくら金融市場に莫大なマネーがブタ積みされても、それは家計や企業の収入を直接的に生み出すものではないから、実体経済のインフレ期待を醸成させるだけの説得力を持つことは不可能だ。

金融緩和政策が効き目を発するのは、景気がある程度過熱した経済環境下に限られる。 真夏にストーブを着けたり消したりしても、不快な状況を改善できないのと同じことだ。

評論家氏は、“人々はそれぞれが持つ「感覚」によって微妙なシグナルを感じ取り、将来的な経済状態を予想する”と述べるが、机上の空論に過ぎない。

実体経済の厳しさに晒される家計や企業はより現金かつ現実的な判断をする。

彼らが消費や投資の判断材料とするのは、あくまで現実の収入と将来の収入増加予測のみで、日銀がいくら大胆な量的緩和をすると息巻いても、我慢していた高級服を買おうとは思わないし、逆に、国債残高が増えたとバカマスコミが騒いだところで、大好きな寿司を食うのを諦めたりもしない。

人々の経済予想の根拠は、自分の財布の重さや厚さ以外にない。

構造改革かぶれの新自由主義者やリフレ派の連中は、こうした人々の心の機微を理解しようとしないから、いつも頓珍漢な政策提言をし、それが失敗すると“改革が足りない”と発狂することを繰り返すのだろう。

かの評論家氏の論文は、デフレに関する3つの嘘((1自由貿易をするとデフレになる (2公共事業でデフレ脱却 (3外国人労働者が流入するとデフレになる)が列挙され、それに関する駄文がダラダラと書かれている。

しかし、(1)は、貿易体制とインフレという何の相関関係もない論説を持ち出した挙句に、節度ある自由貿易に対して意図的に鎖国主義というレッテル貼りをする印象操作を行っているだけだ。(鎖国していた江戸時代はインフレ期もデフレ期も存在する)

2)は、誰も唱えていない「公共事業万能論」とやらをでっち上げて民需が圧迫されていると騒いでいるが、大型チェーン店の野放図な出店が一部遅れた程度のことで、さも日本の経済発展が破壊されるがごとく叫ぶのは誠に見苦しい。特に、“「津波1人も死なない」といった過剰な安全神話を煽って公共事業万能論を吹聴する人々は、経済停滞によって日本国民全員を奈落の底に突き落としたいのだろうか”のくだりは、誇大妄想の類だろう。

最後に(3)ではリフレ派や構造改革臭の強いバカが好んで使う「相対価格」と「一般物価」の話を持ち出して、“もし筆者が企業経営者なら、外国人労働者を使って浮いたお金を建設機械やより多くの労働者の採用に投資し、より多くの仕事を受注しようとするだろう。なぜなら、少なくとも6年後の東京五輪までの間は、仕事がたくさんあると予想するからである”と寝惚けたことを言っているが、目端の利く経営者なら、たった6年先までしか受注の見込みが立たないのに、建機や労働者の採用に思い切った投資などできはしないだろう。

この手の机上の空論者は、家計や企業は手元に余ったカネを気前よく使うことを前提にしがちだが、まだまだデフレマインドが蔓延する状況下で、そんなことをする愚か者は多くはいない。大概の者は、余ったカネを貯蓄し、使うにしてもその一部に止めておくのが普通だろう。

こういった一般的な感覚を理解しようとしない限り、リフレ派の経済政策が現実にそぐうものとなる日は永遠に訪れまい。

彼はリフレ派を称する経済評論家で、民主党末期から安倍政権誕生期にかけては、金融政策に軸足を置きながらも、デフレ脱却に向けて財政政策の必要性も強く訴えるなど比較的バランスの取れた主張をしていた。

しかし、安倍政権下で黒田総裁による念願のインフレターゲット政策が実施されたことを機にすっかり“安倍信者”と化してしまったようだ。

その後に続いた消費税増税騒ぎの渦中では、着々と増税に向けて布石を打つ安倍総理の行状を見て見ぬ振りをし、本当は増税の主犯ではないと必死に擁護していたが、当の安倍総理本人が堂々とテレビカメラの前で消費税増税を宣言してしまい結果的に大恥をかかされてしまった。

だが、それを機に、昨秋の増税騒動の際の醜態を糊塗するかのように、必死に構造改革派に諂い始め、それまで唱えていた財政政策の必要性を取り下げた挙句に、建設現場の人で不足を言い訳にし、財政政策を頭から否定する言動をばらまいている。

元々、リフレ派の論者は、やや頭でっかちで世間知らずな側面があるものの、押しなべて学究肌で生真面目な者が多く、その主張には、構造改革騒ぎで傷ついた日本経済を何とか立て直したいという強い信念を感じることができた。

だが、残念ながら、リフレ派の中には、リフレーション政策でデフレから脱却するという大目標よりも、インフレターゲット政策をはじめとするリフレ政策を社会に押し付けること自体が目的化しているかのような言を弄する者もいる。

彼らの好む経済手法の社会実験に没頭するあまり、それが社会にもたらす影響を冷静かつ正当に評価できておらず、経済指標が上向けば、すべてインフレ期待を醸成させたリフレ政策の功だと偽り、逆に人手不足等の悪影響が出ると、その要因を財政政策など他の経済政策に押し付けようと醜い詭弁を弄する。

そればかりか、自らの政策や論理に矛盾が生じて立場が苦しくなると、“リフレ政策にはタイムラグがある”と言い訳し、それも苦しくなると今度は失敗の原因を社会構造のせいだと詭弁を弄し、リフレ政策が効かないのは構造改革が足りないからだと、メインストリームにいる構造改革派や新自由主義者に擦り寄ろうとする誠に卑しい連中である。

件の評論家氏は、先の論文で「無能な経営者はノイズをシグナルと見間違える」と述べているが、これはまさに自身のことを指しているのだろう。 デフレを助長し、国富の流出を招く新自由主義政策を賛美する様は、ノイズをシグナルと見間違えているとしか言いようがないが、本人だけは気付いていないようだ。