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うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

世界の流れを読めない素人政権

新聞やTVなどのバカマスメディアだけでなく、社会生活や学校生活において、「グローバル化」という言葉が大手を振ってのし歩いている。

一日中昼寝でもしていない限り、この言葉を耳にしない日はないだろう。

 

グローバル化という言葉は、使い手が進歩的かつ知的であるかのような印象を演出できるとても使い勝手の良い言葉であり、グローバル化に対応できそうにない田舎者ほどよく使おうとする。こういった田舎者ほど、か弱い自分を庇護する言葉を大事にするから、グローバル化を否定したり、それに抗おうとする者に対して、時代遅れの田舎者とか既得権益にしがみつく抵抗勢力と口汚く罵ろうとする。

 

さて、グルーバル化とは『政治・経済、文化など、様々な側面において、従来の国家・地域の垣根を越え、地球規模で資本や情報のやり取りが行われること。グローバル化により、経済的には、国内市場と海外市場の境目がなくなる、労働力も海外から調達できる、などの変化が顕著になる。(後略)』(新語時事用語辞典より)と定義され、1990年代から国内でも多く使われ始めたようだ。

 

バカマスコミやそれに寄生する自称知識人たちにより、グローバル化=国際化・自由化・世界共通化・ボーダレス化というイメージが構築され、政府の介入や古き商慣習を嫌う強欲な新自由主義者だけでなく、反戦活動や環境活動に身を投じるコミュニストナチュラリスト(通販生活の愛読者)たちにも好意的に受け容れられてきた。

国とか国家という概念を邪魔なもの、ウザったいものとしか捉えられない“自由人”の連中にとって、グローバル化という言葉は、不勉強な大衆を一発で黙らす印籠代わりに重宝されている。

 

国家の垣根を食い破ろうとする害虫たちは、国連とかEU(欧州連合)のような国際組織や共同体を理想とし、経済体制においては、EUやTPPのように一定のブロック内での資本や人の移動のボーダレス化を進めようとする。そして、金庫代わりにタックスヘイヴンみたいないかがわしい地域を用意するのも忘れない。

 

国家やそこに暮らす国民の納税や労働により整備された社会資本や社会制度にタダ乗りしておきながら、国家は敵であり邪魔な存在、既存のめんどくさい慣習やルールを全てなくせば理想社会が出現すると夢想する幼稚なバカどもは、校則や教師に反抗する昔の青臭い中学生以下の夢想主義者にすぎない。

だが、現実には、日本だけでなく、多くの先進国や新興諸国に広まった新自由主義者が発する幼稚な意見に社会全体が振り回されている。

 

こういった連中は、まず、「改革」とか「グローバル化」、「自由化」といった一般人が抗いがたいキーワードを前面に出して露払いさせ、徐々に自分たちに都合のよい政策(=国民にとって都合の悪い)をゴリ押ししてくる。戦国時代に各地にキリスト教を広めた宣教師さながらに、目新しい言葉や新鮮そうな政策(中身はAを削ってBに充てるだけのもの)を名刺代わりに配り始めるのだ。

そこで反発が出ると、「既得権益にしがみつく抵抗勢力」が騒いでいると断罪し、社会の底辺にいる層(中流層へのルサンチマンに溢れ、自らの地位向上より中間層の引き下しに熱心な連中)から徐々に攻略を始め、あとはオセロゲームのようにあっという間に社会全体の意見を白から黒に変えてしまうから恐ろしいものだ。

 

だが、最も恐ろしいのは、自分の生活や所得、地位が脅かされるのを薄々判っていながら、邪教を唯唯諾諾を受け入れた挙句に、それに抗う者を糾弾する側に変心する不勉強な国民の存在だろう。

 

さて、先月には、ウクライナで親ロ政権を追放する政変が起こったかと思えば、息つく間もなくクリミアの独立→ロシア編入と事態は急展開している。

こうした動きは、ロシア系住民を抱える旧ソ連諸国に大きな影響を及ぼしている。

こうした国々には、ロシア系住民の多い親ロ地域を抱えており、そういった地域で独立運動の機運が高まると、ロシア系住民の保護を大義名分とするロシアの軍事介入が起こりうるからだ。可能性はかなり低いが、親ロ地域だけでなく国全体がロシアに編入され、旧ソ連から分離独立した小国が再びロシアに吸収される事態が起こり得るのだ。

 

つまり、国の数が減るという非常に珍しいイベントに遭遇する可能性があるということだ。

 

この世界では、古来より、多少の振幅はあるものの、国の数は一貫して増え続けてきた。(詳しくはこちらのサイトを参照 http://sid.co.jp/cn83/cn13/pg147.html

特に、二度の世界大戦やアフリカ、南米諸国の独立、ソ連崩壊などのビッグイベントを経て、ここ100年ほどの間に国の数は急激に増え、現在195カ国(うち国連加盟国193カ国)にもなる。

いまから100年ほど前には50カ国ほどしかなかったが、第二次世界大戦1960年のアフリカの年を機に急激に増え、いまや200カ国の大台に迫る勢いだ。

近年、その増加ペースは鈍化しているが、民族や宗教の対立などの理由により世界各地で独立問題が燻ぶっており、それらの導火線に火が付けば、再びそのペースは上昇するだろう。

 

これは、グローバリストの連中が理想郷と称えるEUでさえ例外ではない。

イギリスのスコットランド、スペインのカタルーニャバスク、イタリアのバダーニャなどが有名で、中でもスコットランドは、今年9月の独立の是非を問う住民投票が行われるなど独立に向けた具体的な手続きが進行しているが、イギリス国内では、納めた税金以上にカネのかかるスコットランド(国土の1/3ほどの面積に500万人ほどの人口)の独立を歓迎する声も一部にあるようだ。

スペインでは、逆に、中央政府が進める緊縮財政政策や構造改革(スペイン政府にも日本と同じバカがいるようだ)に反発して、比較的財政の豊かなカタルーニャ地方(バルセロナを抱え、GDPの20%を占める)で、独立運動を支持する150万人規模のデモが起きている。

 

新自由主義者コミュニストたちは、自分たちに都合のよい社会を創るため、世界が共通化しボーダレス化する流れは不可逆的なもので抗うべきではないと強弁する。

 

だが、現実はまったく逆である。

国が増えるということは、元々在った一つの国が複数に分離し、独立することだ。

世界が共通化することを世界中の人間が受け容れ、統一した法やルール、慣習の下に暮らすことを歓迎するならば、なぜ、世界中で独立問題が燻ぶり続け、国家の分離独立が止まないのか。

こうした分離独立運動に多くの住民が身を投じるのは、自分たちのアイデンティティーや文化、慣習、社会制度を大切にし、それを侵す共通化や単一化といった流れに強い抵抗を感じているからだろう。

グローバル化のようなフワフワした言葉を無批判に受け容れることに根源的な拒否感を抱くからこそ、表面的にはそれに踊らされながらも、隠し切れない本音の部分ではグローバル化を受け容れられず、分離独立運動という形で発露するのだ。

 

安倍首相は、昨年9月にニューヨーク証券取引所に招かれた際のスピーチで、“もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました”と演説し、その後、TPPの推進を皮切りに、労働規制緩和や移民推進、農協改革(=改悪)、国家戦略特区など、周回遅れ気味の新自由主義的政策のアクセルを力いっぱい踏もうとしている。

これは、消費税増税などの経済失策への批判に対して、構造改革の文脈で構成される第三の矢をもってかわそうとする意志の表れだろう。

だが、所得の減少や雇用の不安定化に不満を漏らす国民を、さらなる所得や雇用の喪失をもたらす政策を使って黙らそうとする現政権は、もはやダッチロール状態に突入したといってよい。

病気に苦しむ国民に、薬の代わりに毒を手渡たそうとする政権は、もう長くはもたないだろう。

 

この体たらくでは、“日本を主語とする”どころか、“日本が死語”になりかねない。