うずらのブログ

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聖衣を纏え!

先月末のことだが、筆者が(仕方なく)購読している地方紙に、同紙編集委員が執筆した「異聞風聞~国土強靭化より国民強靭化~」というコラムが掲載されていた。

 

コラムは、9月半ばに日本列島を縦断して各地に大きな被害をもたらした台風18号を引合いに自然災害への備えの重要性を説いているが、書き出し二段目に入るや否や「国土強靭化で列島にコンクリートの防壁を築けば安心か」と疑問を呈し始める。

この一言を目にしただけで、後段の主張は推して知るべしといったところだが、案の定、「防災に名を借りた国土強靭化という公共事業拡大では本末転倒」だと結んでいる。

要は、東日本大震災をダシに公共事業を拡大させるなどもってのほかだ、自然災害くらいで公共事業縮小の流れを変えられるなんて考えるなよ、と脅したいだけなのだろう。

オチを一言でいうと「自然災害への備えは防災教育等のソフト支援で対応すべきで、公共事業拡大につながるハード事業は絶対にダメだ」ということに尽きる。

 

コラムの概略は次のとおりだ。

岩手県宮古市田老地区にあった万里の長城と呼ばれた巨大防潮堤をもってしても大震災の大津波を防げなかった。想定外の災害は起こるものだ。

・「釜石の奇跡(http://www.city.osaka.lg.jp/shobo_tsurumi/page/0000188706.html)」で著名な防災・危機管理アドバイザーも、国土強靭化より国民強靭化が大切だと主張している。

・当該アドバイザーは「避難の3原則」が重要と説く。すなわち、「①想定に捉われるな ②いかなる状況でも最善を尽くせ ③率先避難者たれ」というもの。釜石の奇跡は子供たちがこの3原則を実践した成果だ。(アドバイザー氏は、5名の児童・生徒が犠牲になった以上、積極的に釜石の奇跡という言葉は使いたくないと述べている)

・学校だけでなく、地域や家庭で、地域の実情に沿った防災教育を実践すべきだ。

・有名な「津波てんでんこ(津波の時には親兄弟にもかまわず、てんでんバラバラに逃げる)」は、肉親を救おうとして一家滅亡の悲劇から出た言葉だ。一人一人が自分の命に責任を持ち、家族同士が「絶対に逃げているはず」と深く信頼し合ってこそ実行できる。

・防災で大切なのは、行政への過剰依存を排し、ハザードマップを過信せず、自らサバイバルに努めよという点にある。

・災害に対し主体的に判断し行動できる個人たれ、そのために国土強靭化の前に国民強靭化が必要だ。コンクリート100%守られるわけではないことは大震災ではっきりした。

 

コラムの書き出しと結論部分を除けば、震災発生前から東北地域で防災活動に奮闘したアドバイザー氏の努力に頭が下がる想いがするし、氏が唱える避難の3原則も的確なものだと感心する。特に、“率先避難者たれ”という言葉は、三陸地域沿岸に伝わる津波てんでんこの教えに通じるもので、命を守る大原則と言ってよい。先の震災では被災者の方々が、家族の身を案じながら、目前に迫った災害と対峙せざるをえなかったと聞くが、その不安な心境はいかばかりであったかと胸が塞がれる想いがする。

また、釜石の奇跡の功労者と称えられながらも、犠牲者のことを案じて真摯な態度を崩そうとしないアドバイザー氏の姿勢に感銘を受けている。

先の大震災では、残念ながら多くの尊い人命が失われたが、こういった市井の人々の多大且つ懸命な努力のおかげでそれを大きく上回る人命が救われたことも事実だ。

 

だが、せっかくの美談も、それを活かせないコラム執筆者の歪な思想や主張のせいで結論が捻じ曲げられた三文コラムに成り下がっている。

 

防災教育(ソフト支援)を軸とする国民強靭化と防災設備投資(ハード事業)を軸とする国土強靭化(正確にはハード事業100%という訳ではないが…)トレードオフの関係に置いて論じること自体が間違いだ。

国民強靭化や国土強靭化の双方に共通する目的は、「国民の命を守る」という点にあり、どちらかを立てるともう一方が成り立たないというものではない。

大震災を教訓に、これから起こる災害に備えて防災教育を徹底し、防災設備や施設を整備・強化すれば、国民の命や財産をガードできる確率が飛躍的に向上するであろうことは、小学生でも理解できるだろう。

 

このことは、近年目覚ましい技術進化を遂げる自動車の安全性能やそれを支える技術革新を考えれば容易に想像がつくはずだ。

エアバッグ、衝突安全ボディ、プリクラッシュ・ セーフティ・システム、駐車支援システム、クルーズコントロール、横滑り防止装置、アンチ・ブレーキ・システム、運転支援システムなど枚挙に暇がない。挙句の果てに、自動運転システムの実用化に向けて公道上で実証実験が行われるまでに至っている。

こういった技術革新を捉まえて、“車の安全性能が上がると、運転する者が慢心して運転技術の低下を招き、かえって事故が増える”と批判するバカがいるだろうか。

 

だが、話が公共事業になると、突然、常識が通じなくなるのがマスコミや国民の愚かなところだ。震災後のTV番組で、偉そうなコメンテーターの作家が、宮古市万里の長城(防潮堤)が破壊されたことを批判して「下手にコンクリート建造物があると住民が慢心するから、そんなものは無い方がいい」と暴言を吐いていたことを思い出した。

 

だが、実際には、建築物や構造物のおかげで数多くの住民が被災を免れている。中でも、震災の折りに住民の避難場所や避難路、救援ルートとして多くの命を救った三陸縦貫自動車道(命の道)が有名だが、このほかにも地震津波で道路を寸断された地域住民の避難場所になった女川原発など、バカマスコミが報じないだけで、被災地には多くの人命を救った公共構造物が存在していたはずだ。

 

“防災教育さえ徹底すればコンクリートは要らない、コンクリートがあるから防災教育が疎かになる”という妄言は現実には通用しない。

筆者が住む地域でも、人口集積が少ない沿岸部をドライブすれば、目の前の道路は高波を被り、背後は高い崖や山肌が迫っているような集落をいくつも目にする。こうした場所には決まって高齢者が取り残されており、いくら効果的な防災教育を施したところで大した効果は上がらないだろう。身体の弱った年寄りに、避難を急かしたところで俊敏には動けないし、そもそも避難する場所すらないのが実情だ。

また、小さな子供が集まる施設や大規模なイベントで大人数が一度に集まっているケースでは、パニック状態になる可能性も強く、日ごろの防災教育が上手く機能する保証はどこにもない。

こうした状況では精神論などまったく役に立たない。ソフト支援の限界がここにある。

 

このコラムが主張したいのは、実は防災教育の大切さなどではない。防災対策を突破口に公共事業が復活することを嫌い、それを何としても阻止したいというのが本音なのだ。

本気で国民の命と財産を守ろうと考えるなら、ソフト面とハード面の双方を充実させることが欠かせないという常識的な結論に至るはずだ。精神論だけで命を救うことなどできない。

 

だが、コラム執筆者は、防災教育の大切さを持ち上げる一方で、防災のための公共事業を悪と決めつけ、防災教育をないがしろにしかねない邪魔なものだと主張する。

彼らにとって、土建屋と悪徳政治家を儲けさせるだけの公共事業を失くせるならば、災害で国民の命がどうなろうと知ったことではないのだろう。

 

このコラムを書いたバカは、昔の少年ジャンプのマンガみたいに、“我が身を守る聖衣(クロス)を脱ぎ捨てた時に自らの小宇宙(コスモ)が爆発し最大限のパワーが発揮される”と本気で信じ込んでるんじゃないだろうか。

 

だとすれば、マンガの読み過ぎである。