うずらのブログ

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安全な場所から後講釈で現場を非難する醜さ

東日本大震災に起因する東京電力福島第一原子力発電所の事故を巡り、被災者らが、当時の東電役員や原子力安全委員会原子力保安院文科省等の幹部を業務上過失致傷の罪名で告訴していた(別の案件では菅元首相も告訴)事案は、東京地検が全ての被告訴人を不起訴処分とし、告訴人の訴えを退ける形となった。

 

この処分は、原発事故にうろたえ放射能に係る風評被害の元凶とも言える菅元首相に対する処分を除いては、極めて妥当な判断である。これを機に「福一」とか「フクシマ」とかいった差別用語を連呼して風評被害を撒き散らす放射能バカは猛省し、震災がれきの後片付けでも手伝うべきだ。

 

告訴人らの「津波は予見可能であった」という主張は根幹から誤っている。原発事故以来、東電叩きをライフワークにしている反原発ゴロの連中は、2008年の段階で東電内部では15.7メートルの津波を試算していたが実際には6メートルの津波対策しかしていなかったとし、これを東電の明らかな過失だと非難する。また、この地域でマグニチュード8.3程度の地震と高さ10メートル程度の津波が来ることは、地震津波の専門家なら2002年当時から誰でも想定できたと主張する。

 

しかし、こんなものは後講釈で何とでも言えるものだ。○○委員会で専門家からこんな指摘があったとか、○○会議でこんな資料が提出されていたとかいった類の妄言にいちいち付き合っていては会社が持つはずがない。

だいたい、危険性を指摘する者は、異様なほどの正義感に高揚しがちだが、その対策に責任を持つ立場にいる者は稀である。自分で後始末をする必要がなく、ああすべきだ、こうすべきだと好きなことさえ言っていればヒーローを気取れるのだから気楽なものだ。

 

いくら厳格な安全管理を求められる原発とはいえ、全ての事故や災害への完璧な対応を義務付けられるのは現実的ではない。そもそも数万年~数十万年に一度の頻度で発生する巨大地震や大津波を想定したフルスペックな備えをしろと言う方がどうかしている。ジャワ原人北京原人が体験した(かもしれない)大災害への対策を怠ったからといって罪に問われるというなら、巨大建造物を建てること自体が罪になるだろう。

 

マスコミに煽られていい気になっている反原発ゴロの連中は、数万年前の断層とか千年に一度の大震災を想定外とすることすら許さない(違法な選挙運動や隠し子は問題ないらしい)ようだが、日本の西隣で反日運動や軍事的挑発を繰り返す三バカ国家に対する危機感は全く持っていないようだ。彼らの口から、中韓朝の軍事行動への備えを強化すべしといった主張が出ることは永遠にない。

また、いよいよ目前に迫った消費税増税TPP参加交渉の問題についても同じことが言える。両方とも、デフレを深刻化させるだけでなく、日本の最大の強みである供給能力を徹底的に破壊しかねない大変危険な政策だが、バカマスコミは、このような経済的大厄災を軽くスル―して、大したことにない汚染水問題を何とか世界に拡散しようと必死である。

(汚染水など、太平洋の大きさに比べれば塵以下で何の問題もない。落ち着いて漏水防止作業をすればよい。)

このように神話の世界の厄災にはやたらと敏感になるくせに、いまそこにある現実的な危機に対 しては傍観を決め込むバカ者など相手にする必要はない。

 

大震災に関しては、東電以外にも大川小や日和幼稚園等の訴訟事件が相次ぎ、一部で判決も出ている。

幼いわが子の命を失った親御さんの気持ちを思うと、その悲しみや喪失感はいかばかりかと深く同情せざるを得ない。

 

一方で、訴えられた側の学校や園関係者の方もまた、愛しい児童や園児の命を守れなかったという罪悪感を背負って生きねばならぬことを想うと胸が締め付けられる思いがする。

 

幼い命を失ったことに対する憤りは誰しも同じであろう。しかし、日本中の誰もが驚かされた、それこそ想定を大きく超える巨大地震や大津波の発生を前にして、後講釈で、ああすべきだ、こうすべきだと偉そうに述べることは誠に恥ずべき行為だ。

 

のんびりとした日常生活から、一瞬にして、体験したことにない大災害の世界に直面した方々の心理状況はいかばかりであったろうか。そんな時、うろたえずに後から誰からも非難されないような冷静かつ妥当な行動を取れるものだろうか。

筆者には到底できそうにない。

大震災からの復興に取り組む渦中で、被災者同士が法廷でいがみ合わなければならないことに表現し難いやりきれなさを感じている。