うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

現実を直視せよ

平成23年分民間給与実態統計調査国税庁)によると、ここ10年の平均給与は、

・平成13年分 4,540千円(前年比▲1.5%)

・平成18年分 4,349千円(前年比▲0.4%)

・平成23年分 4,090千円(前年比▲0.7%)

と直視するのが辛くなるような低調ぶりだ。

いまさら数値を並べて説明するまでもなく、世知辛い職場で毎日せかせかと働かされる者の実感を反映した結果だと言えよう。

だが、年々減っているのは給与だけではない。増え続ける業務目標とは裏腹に、ポストも交際費も同僚も部下も氷が溶けるように減らされている。それは、若者から雇用の場を奪うことにもつながり、多くの若者が、今日も不安の中で厳しい就職活動を強いられている。

 

長らく続く緊縮財政策により景気を刺激する力が絶対的に不足した経済環境下では、国内需要が低迷するとともに、少ない需要を巡って企業間の競争が激化し、売上や収益を犠牲にした勝者なき競争が延々と続くことになる。

出口の見えないデフレの闇の中で誰もが大きな不満やストレスを抱えることになり、“モノの価格が安いのは良いこと”という意識が先行し、国家財政を主婦感覚や家計簿意識で論じることが当然という勘違いが蔓延する。

 

さて、衆院選を睨んで公共事業の強化や大幅な金融緩和を訴える安倍総裁の経済対策に対して、野田首相は「紙幣をいっぱい刷れば経済が良くなる。そんな経済政策を通じるはずがない」と厳しい批判を寄せた。

だが、首相のこういった批判は、戦後のモノの乏しい時代をいまだに引きずる古くさい家計簿の発想だといえる。

デフレ不況の要因が需要不足にあることは、すでに日銀総裁も認めるところで異論の余地はないだろう。

「需要が不足している」ということは、国内に溢れ返る商品やサービスの買い手が足りない、それらに対してカネを払う者が足りないということだ。

あらゆる企業が必死になって「カネ」を集めよう(=売上を上げる)とする時に、最も必要なのは何だろうか。

答えは簡単。それは「カネ=紙幣、通貨」である。

物々交換の社会じゃあるまいし、IPadと大量のじゃがいもを交換しようとするバカ者などいまい。

であれば、経済を良くする=需要不足を解消するためには、供給力に見合う紙幣を実体経済に供給してやるしか手がないことなど常識だろう。

紙幣や通貨を世に供給できるのは国家(政府)しかない以上、安倍総裁が提言する財政政策と金融政策のポリシーミックスは、常道中の常道とも言える当然の政策だ。これにケチをつけるのは勝手だが、我慢や念仏では経済を好転させられないのだから、後で恥をかくだけだ。

“多額の借金を抱える日本はこれ以上国債を発行すべきでない”、“建設国債の日銀引き受けなんてやれば、財政ファイナンスを疑われてハイパーインフレになってしまう”という時代遅れの観念論だ。いつまでもそんなものに固執していては永遠にデフレから脱することはできない。

 

高度な供給力に不釣り合いな需要しかない日本経済にとって、紙幣が増刷され実体経済に供給されれば経済成長が実現するであろうことは、呼吸すれば体内に酸素が取り込まれるのと同じくらい自明のことなのだが、構造改革教の信者たちは、それを頑なに否定する。

それどころか、人間に呼吸を止めさせ光合成を強要しようとするから手に負えない。

大阪の中学生市長や池田信夫などを始めとする構造改革教の信者たちは、経済危機を前にしても、公共事業など無駄だ、日本の産業構造を変える必要があると強弁するが、需要の意味や経済活動の基本的な仕組みを理解できていないようだ。

彼らは、国民の収入状況に関わらず“魅力ある商品やサービスの出現を待ち焦がれる無尽蔵の需要が常にスタンバイ状態にある”ことを前提にしている。

このため、“国家が経済を主導するなんてとんでもない、民間の競争から生まれた経済成長しか認められない”と考えがちだ。

そこには国民経済全体を発展させようというマクロな視点はない。自分の考えに合う者だけが生き残ればよいという狭小かつ幼稚な思考しかない。

 

また、構造改革教の教義では、グローバル化が善とされ、需要は常に海外にあることになっている。

デフレに苛まれ、少子高齢化や人口減少が進み衰退した国内市場など、彼らの眼中にはない。成長するアジアや勃興する新興諸国こそが彼らの狙うフィールドであり、そこに無尽蔵の金鉱が眠っていると信じて疑わない。

経営学の常識では、マーケティングやコマーシャル、物流コスト等の観点から、消費地の近くで生産販売するのが原則だろう。

ましてや、ユニクロ楽天のように(調子に乗って)英語の社内公用語化を社員に強要するような自称グローバル企業であれば、何も人件費の高い日本に固執する必要などないはずだ。

大好きな中国や東南アジアに会社ごと移転させて、有能かつ低コストな現地の人材(英語もペラペラ)を使えば、より高い収益率を実現できるはずだ。

両社とも、いつも社長が偉そうに“これからはグローバルな人材が必要だ”とか“日本に閉じこもっていては淘汰される”と吠えている割に、一向に日本から出て行こうとしない。

便利かつ安全な日本の社会インフラや社会制度のうえにどっかりと胡坐をかきつつ、人件費の安いアジアへ雇用をシフトさせ、日本の若者は甘えているだとか元気がないなどと筋違いな意見を垂れ流しているが、肝心のお前はどうなのかと問いたい。

ホームタウンで威張るばかりで、アウェーで闘う勇気も自信もないのではないか。

 

「日本の産業構造を変える必要がある」というマスコミの決まり文句にも異論がある。

農業や建設業をはじめ公共事業頼みの生産性が低い業種を排除して、付加価値が高い産業分野への転換を図ろうとする意図のようだが、これこそ「需要と供給の関係」をまったく無視したファンタジーだ。

生産性の高い産業とか付加価値の高い業種へ産業構造を転換させようとするのは、観客を減らすにまかせて舞台に上がる演者ばかりを増やそうとするのと同じことだ。

最高の演技、至高のパフォーマンスをしさえすれば、観客なんてどこからともなく現れるはずだ、という単純な発想が根底にある。

だが、現実には、観客の懐にカネが入っていなければ、魅力的な舞台を観たくてもとても観に行けるものではない。

そうなってしまえば、血の滲むような努力を重ねた演者たちは、無人の客席に向かって空しく熱演するしかなく、むろんギャラが支払われることもない。

 

産業構造の変革云々といった浮世離れした抽象論をぶつよりも、経済学の常識に従って公共事業を通じて実体経済へ資金を大量に供給し、未来の先進産業の育成につながる分厚い需要を創出することが大切なのだ。

特定の先進産業に資金を投下しても引き受けてのない供給力ばかりが増すだけだ。まずは、産業全体に需要の源泉となる資金を投じることにより、先進産業の芽を育てる土壌をじっくりと育成することを忘れてはならない。

 

最後に、滋賀県の“何でも反対知事”が、卒原発を標榜して新党を立ち上げるそうだが、自殺者まで出した足元のいじめ問題を放置したままで、よくこんなくだらないパフォーマンスができるものだと呆れている。

この動きは、第三極の二分化を進めるものになり、維新の会やみんなの党にとっては票が割れ不利になると見込まれるが、県政で大した実績を残せない反対屋知事の政治パフォーマンスとしか思えない。

 

それにしても、経済や国防・教育など国家や国民生活に迫る喫緊の課題を二の次にし、反原発とかTPPという呑気な理念に熱狂する連中の頭の中はどうなっているのだろうか。

旦那は失業中で妻はパート勤め、息子は求職中、両隣を布団叩きおばさんのようなクレーマーに囲まれ、メンテ不足で家の柱には白アリがタカっているような一家が、風呂釜をガスにするか、灯油ボイラーにするかで真剣に悩んでいるようなものだ。

世の中には、反原発きちがいの連中(週刊金曜日とか通販生活の購読層や大麻愛好者の連中)が大手を振って闊歩しているが、実際には大震災による福島第一原発が日本に与えた実害など大したことはない。

構造改革教の教義に忠実なマスコミの連中は、たとえ震災復興と云えども公共事業を伴う財政支出は好ましく思っていない。そこから国民の目を逸らすために、あえて反原発主義者たちを煽って原発反対デモを支援したり、風評被害を撒き散らしているだけなのだ。

 

くだらないデモで気勢を上げている暇人は、現実の放射能被害が如何ばかりのものか知っておくべきだ。

どうせ一日中暇でやることもないだろうから、「被災地の皆さんに寄り添う」と云う日頃のキレイごとを実践すべきだろう。

ぐだぐだと文句ばかり言っているのではなく、自分の足で無人化した計画避難区域を訪れ、元気に駆け回る野生化した牛に“体調はどうか”と尋ねてみてはいかがか。