うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

デフレ脱却は何も難しくはない

 読者の皆様も今夏の暑さにうんざりしていることと思うが、それ以上に一向に回復の兆しの見えないデフレ不況に対して、更にうんざりしておられることだろう。

 TVや新聞、雑誌などですっかりおなじみになった「デフレ不況」という語句だが、「デフレ」と「不況」という語句がセット化されて広く普及したのはごく最近のことだ。
 一般的に国民がイメージする不況とは「インフレ」のことを指し、野菜やガソリンの値段が高くなって生活が苦しい、大学の授業料が値上がりして困るなどといった自分の財布の中身に直結することで、世の中の景況感を判断している。
 「デフレ」とは、国全体の物価が継続的(2年以上)に下落する現象と定義されるが、呑気な国民は、デフレの恐怖が伝播する初期段階にモノの値段が安くなったことを喜び、全体的にデフレを歓迎するようなムードさえあった。
 だが、デフレにより企業業績が蝕まれポストや給与の削減、倒産による失業といった実害が自分の身に降りかかるリスクが顕在化するにつれて、ようやくデフレという言葉が不況と結びつけて語られるようになったと言える。(いまだにデフレの意味、経済への悪影響、デフレの恐怖を理解できていない人が多数を占めているが…)

 先に示した定義のとおり、デフレとは「国全体の物価」が「継続的に下落」することであり、サンマや白菜の値段が上がったり下がったりすることを指すものではない。
 製品を作ったり、サービスを提供して収益を上げようとするのは“営利企業”の役割かつ存在意義そのものであり、できるだけ高い価格で自社の製品やサービスを提供し自らの生産性を高めたいと考えるのが一般的だ。(良質で安価な製品を届けたい、なんていうのは他社のシェアを奪い取るための一時的な方便に過ぎないはずが、いつの間にやらデフレ不況にどっぷりとはまり込み、“安価”の部分だけが独り歩きしている状態になっている。)
 だからこそ、世の中に数多ある製品や商品、サービス全体の価格が継続的に下落するということは、極めて異常な事態であり、需要の急激な収縮による需給バランスの崩壊圧力がいかに強烈なものかがよく判る。

 デフレにより相対的な物価が継続的に下落するのは、供給が需要を上回る、あるいは、需要が供給を下回るからこそ起きる現象で、簡単に言えば「購買力の不足」により引き起こされるものである。
 購買力が不足しているということは、家計や企業、団体などを問わず消費や投資主体の収入が減っている、あるいは、将来にわたり減少するという予想がなされているために消費や投資に資金を廻せない、ということだ。端的に言えば、収入が減り財布の中身が乏しくなっているということだろう。

 以前のエントリーでも示したように、デフレ放置論者の最右翼の一人でもある白川日銀総裁でさえ、需要不足がデフレの要因だと認めざるを得なくなっている。
 であれば、問題の解決は容易い。デフレを脱却するには、経済学の常識に則り、財政政策(+金融政策)を長期間にわたって実施し、国内の家計や企業の購買力を上げてやればよい。

 しかし、かようにシンプルかつ明快な解決策を頭から否定する愚か者が後を絶たない。
 この手の愚か者が吐く暴論は、マスコミを通じて世の中に吐き出され、残念ながら、広く国民の支持を受けている。まるでインチキ宗教の狂信者と同じで、信仰する構造改革教を普及させることを何より優先し、そのためには、いとも簡単に現実や既存の社会システムを否定して自分の理想に近づけようと躍起になる。彼らにとって国民経済がどうなろうと知ったことではない。
 彼らは、デフレ不況の要因が需要不足にあるとは決して考えず、あくまで供給側の問題、あるいは、構造的な問題にすり替えようとする。
 例えば、
“国内の目の肥えた消費者を満足させられるような魅力のある商品がない。”
ガラパゴス化した国内市場に固執するあまりグローバル競争の波に対応できていない。”
“不公正な市場や不透明な商慣行のせいで適切な競争が阻害されている。”
“硬直化した雇用システムに問題がある。”
 などといった具合に、いい加減かつ的外れな理由を並べ立てる。(日経やWBSなど)
 そして、そこから導き出される解決策も、
“金融システムの見直し”、“官から民へ”、“構造改革”、“”規制緩和“、“市場開放(TPP)”、“雇用の流動化”など、まさに硬直化したものばかりで、現実を無視した下策と言える。
 最近では、彼らの主張する論点が、現実のあらゆる経済問題を上手く説明できず、その論理にことごとく矛盾が生じ、それを取り繕えなくなったために、需要不足がデフレ不況の要因であることをしぶしぶ認め始めている。

 だが、彼らもしぶといもので、デフレ不況を脱却するために最も常識的な政策ツールであるはずの財政政策を頑として容認しようとはせず、2つのイメージ戦略による反財政政策キャンペーンを展開して国民を洗脳し続けている。
 一つ目は「国債破綻懸念論」だ。
 ここでは、歴史的な低金利、100%近くが円建てかつ内国債という世界最高水準の安全性を誇る日本国債に対して、根拠なき不安を煽り国民に財政破綻をイメージさせ、社会保障費の削減や増税を認めさせるために、“国の借金は1,000兆円に上り国民一人当たり900万円もの借金を背負わされている”とか“海外投資家が一斉に国債を売り浴びせれば日本国債は大暴落する”といった類の幼稚な脅し文句が横行する。
 二つ目は「公共事業性悪論」だ。
 財政支出の増加を公共工事の増加と結びつけたうえで、「公共工事=談合、政官業の癒着、賄賂の横行、ゾンビ企業の延命」など公共事業悪玉論を徹底的に摺り込もうとする。
 実際に、この反財政政策2本柱の効果は絶大で、ほとんどの国民が毒されているといっても過言ではない。
 経済合理性を頭から無視した愚論は、市井に蔓延る薄っぺらな倫理観をくすぐるのか、これだけ長い間(二世代くらいにはなる)デフレ不況に苦しんできたはずの国民の目をいまだに曇らせ続けている。
 我慢と節約好きの国民を騙すには、これに勝る手はないのかもしれない。

 空腹が原因で倒れた人を救うには、食糧(+飲料)を与えるのが常識的かつ適切な方法だろう。
 しかし、不況だ、不況だと言いつつも、これまで我が国は、倒れた人に栄養学の本を投げ渡したり、ダイエットや過度な運動を強要したり、胃薬を渡したりした挙句に、どれも効果が出ないと知ると、最後には「胃を小さくしろ」と言い放って放置してきたのだ。
 これは、大干ばつで枯れかかったトウモロコシを囲んで、土壌を改良すべきか、肥料を改良すべきか、はたまたトラクターの性能を改良すべきかと頭を悩ませているのと同じことだ。水を与えればよいだけなのに、それだけは絶対に避けようとし、遂にはトウモロコシを枯らしてしまう。
 空腹で困っている人を助けるのに、高尚な説教など何の役にも立たない。
 無尽蔵にある食糧と水を必要なだけ与えればよいのだ。ここに点滴を打つべきとか、あそこに塗り薬を塗らないとなどと余計な心配は無用で、欲するだけ食糧や水を与えさえすれば、自然と元気を取り戻して、あとは自力で動いたり働いたりできるようになるものだ。

 余計な“邪心”さえ取り払えるのなら、不況を脱するための答えは極めてシンプルである。