うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

需要を創り出す努力こそが不況の闇を切り開く

 「町有面積の80%を占める山林から切り出された木材を製材する際に出てくる端材を使った木質ペレットを開発。ペレットストーブの普及を後押ししてCO₂削減に期待」とか「地域の飲食店から排出された残飯を飼料にして育成した豚を使ったソーセージやベーコンを開発」などといった新聞記事やニュースのひとコマをご覧になった方も多いだろう。たいがいは、記事やニュースの中で新商品が採り上げられ、開発の苦労話の後に“地域を元気にしたい、地域を盛り上げたい”といった類の生産者のコメントが紹介される。

 だが、筆者の知る限り、この手の話で実際に地域が元気になったという事例はない。新聞やTVで紹介され、始めのうちこそ問い合わせを受けるものの、ひと月も経てば閑古鳥の巣になっている。

 それも当然のことで、この手の商品の多くは、地域の余りモノを何とかしたいとか時流や時勢に沿ったキーワードを並べただけの自己満足な商品づくりの域を出ていない。さらに、作り手側の都合や理念ばかりが優先され、ターゲットの焦点がぼやけていたり、ニーズを汲み取ろうとしないモノばかりなうえに価格も高いものばかりだから、発売とともに在庫の山を築くことになる。

 地域で何が余っていようが、消費者の知ったことではないし、〇〇地域のブランドなどと言ったところで、そもそも地域の知名度自体が限りなくゼロに近いケースも多い。モノづくりに「余りモノ」と「流行モノ」は厳禁である。

 こういった商品の作り手は、えてしてモノが溢れる時代に新たにモノを市場投入することの難しさを全く理解していない。自分たちが苦労して作ったモノ、地域の特産品やブランド品を商品化したモノさえ作っておれば、誰かが勝手に買っていくと思い込んでいる。

 だが、この手の勘違いは、なにも上記のような生産者だけに当てはまるものではない。むしろ、日本人の多くに共通する勘違いとも言えるだろう。

 ながらく技術立国とか貿易立国信仰に帰依してきた日本人は、何かと供給側の論理に基づく発想をしがちである。新たなモノづくりはイノベーションや革新性を想起させ、何か良いモノを作れば必ず収入を得ることができ生活水準が向上すると信じ込んでいる。

 多くの日本人の頭の中には、モノづくりと収入UPとの間に存在する“消費や購入”の視点が抜け落ちている。作れば売れると信じ込んでいるから、いかに効率的に作るか、とか、いかに生産量を上げるかといった視点に固執するが、そんなものはもはや時代遅れの古い考えであることに気づかない。

 彼らは、長引く不況の原因が需要不足にあることを本当の意味で理解できていない。自分の会社の業績が悪いのは、努力や工夫が足りないためだと信じ込まされ、一生懸命働けば、みんなが頑張れば何とかなると思っている。だからこそ、サービス残業や過労死は止まないし、ブラック企業が横行している。

 “もっと魅力ある商品づくりを”とか“新興諸国と競争できるコスト環境を”とかいうバカげた念仏を唱えて身を粉にして働こうとするが、国民の財布にカネが入っていない以上、せっかくの努力も報われず、会社の業績は悪化の一途をたどり、やがては給与や手当、ポストも削減されるという憂き目を見ることになる。

 また、悪いことに、いまだに多くの国民は、景気が循環するものだと思い込んでいるが、これこそ前時代的な発想である。高度成長期を経てバブル期までは、国内外の旺盛な需要に支えられて、こういう考えも通用したが、世界的な供給過剰状態(=需要不足)にある現代においては、もはや幻想だと言ってよい。

 いま我々が直面している不況は、台風のように、じっと我慢していればいつかは過ぎ去り、その後に晴れ間が出るようなヤワなものではない。

 技術革新や生産能力の向上により絶えず上昇圧力の掛かる供給力と緊縮財政やムダの削減という新興宗教の蔓延による需要の低迷との間のバランスを著しく欠く状況下では、景気を刺激することに関して能動的なアクションを起こさない限り、不況という台風が過ぎ去ることはない。

 このまま何も手を打たなかったり、構造改革的なインチキ宗教に逃げ込み無駄な我慢や努力を重ねていけば、この鬱陶しい不況は永久に続くだろう。

 国民は、マスコミが垂れ流す情報に右往左往することなく、好況とは何なのか、それはどういう要因でもたらされるのかという基本的な事柄について理解する努力すべきである。それは何も難しいことではない。需要と供給とのバランス、所得と消費との関係、通貨の役割とその発行主体は誰なのかなどといった点について、身近な常識の範囲内で理解しておれば事足りる。

 世間知らずのマスコミの連中やのほほんとTVばかり観ている国民は、釣竿を数多く垂らせば魚がたくさん釣れると信じ込んでいるが、魚のいない釣堀でそんなことをしてもただただ時間を浪費するばかりである。いくら釣り竿の性能を上げても、高級な餌を付けても、そもそも魚がいないのだから釣果など上がるはずがない。

 ここでグローバル化の信者は、魚のいない釣堀を見捨てて隣の釣り堀に移動しようとするが、残念ながらそこにも大した数の魚は残っていない。たいていは、高い入漁料を吹っ掛けられたり、釣りのルールをコロコロ変えられたり、食べるところもないような貧相な魚しか釣れなかったりしてがっかりさせられることになる。

 これが、いまの世界経済を取り巻く現状である。

 目を血走らせる釣り人の苦労に報いるためにはどうすべきか、釣り堀に魚を投入できるのは誰なのか、投入すべき者は誰なのかをよく考え、常識的な答えを見つけることだ。

 冒頭の事例のように国内に数多ある“地域”を元気にするには、地域にお金が落ちる経済環境が必要になる。もちろん、「お金が落ちる」というのは、売上や収益が生じるという意味で、借りるためのお金を供給するという意味ではない。広域にわたる地域を活性化させるだけの量のお金を広く厚く行き渡らせるためには、特定の業界や地域に資金を集中投下しても役に立たない。

 大規模かつ長期的な財政・金融政策、平たく言えば“バラマキ”を行うのが、最も効率的かつ効果的な手法になる。バラマキを通じて広く国内に循環する資金に刺激されて、地域ごとに様々なニーズが生まれ、それに対応する多様なバリエーションの商機が創出される。そういったビジネスチャンスを求めて民間企業の参入が促され、適切な競争状態が維持される。これこそ、デフレ脱却に向けた経済対策の常道である。

 幼稚な改革ごっこやムダの削減競争に汗をかいても、そこからは何も生まれない。