うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

『削減=改革』という勘違い

 この20年余りの間で、『改革』という言葉ほど誤った使われ方で世の中に氾濫したものはないだろう。

 新自由主義構造改革の熱心な信者に先導されて、構造改革行政改革・郵政改革・政治改革・社会保障改革・税制改革・公務員制度改革等々数え上げればきりがないほどの改革(中国による異様な為替操作のスピードを少々緩めることでさえ“人民元改革”と称賛されている)が行われてきたはずだが、そのお粗末な結果はご覧のとおりである。

 橋本内閣や小泉バカ内閣に連なる一連の“改革ごっこ”に洗脳された国民は、雇用や収入、社会保障などを浄財として巻き上げられた挙句に、荒廃した社会基盤を押し付けられ、文句を言おうものなら、努力(信心)不足とか自己責任の一言であっさりと片づけられるありさまだ。

 東日本大震災後に湧き起こった復興増税や消費税増税問題においても、「身を切る改革」などというレベルの低い議論に終始している。先日も、岡田副総理から、国会議員の歳費削減や国家公務員の新規採用者数大幅減といった小学生レベルの提案が、政権内部で事前の摺り合わせもなく飛び出す始末で、政治家どころか社会人としての基本的な常識も持ち合わせていない政府首脳の存在に唖然とさせられる。

 そろそろ、政府・官僚・国民・企業の間で、互いに支出削減実績を自慢し合うようなバカバカしいデフレ促進合戦は止めた方がよい。中高年のオヤジが自分の病気自慢をし合うのと同じくらい生産性のない話である。

 我が国が世界最長水準のデフレ継続記録を更新し続けていられるのも、この手の「支出を削る=改革」といった初歩的なミスから多くの国民が抜け出せないでいるからだ。国家と家計を同一視し、カリスマ主婦に倣って無駄を省けば社会が上手く行くと単純に信じ込む単細胞な国民はどうしようもない。

 前述のナントカ改革シリーズに共通する思想は、他人の支出や待遇を削るという点のみであり、その他のちょこまかした制度や機構の変更などは単なる付属品である。

 やたらと改革をやりたがるというより“改革という手段に逃げ込もうとする輩”は、マクロな視点で物事を解決するのが苦手である。発想を転換して根本的な解決策を探るような能力や意欲に欠けるため、ミクロな視点から抜け出せずに目の前にあるこまごました制度や機構をいじくりたがるのだ。だが、所詮は問題の大枠には手をつける勇気がないからやれることは限られてくる。そんな時に誰もが思いつくのが、他人の給与やポスト、あるいは外部への支払いの削減といった愚策である。

 何も無いところに新たな仕組みを創り出すのは大変な苦労を伴うが、既にある制度や仕組みに文句をつけて、それを削ろうとするのは誰でも考えつくことだ。

 ところが、新自由主義者構造改革が大好きな自称改革者は、こういった単純な行為をさも難しいことのように喧伝して、自らを巨悪に立ち向かう改革者に擬えようとする。最近では、事業仕分けに気勢を挙げていたバカ議員や大阪・名古屋のこども市長(+阿久根の元バカ市長)などがこういった類のエセ改革者と言えよう。

 多くの国民は、デフレに起因する生活水準の切り下げに抗しきれずに莫大な鬱憤を抱え込み、公務員や政治家の待遇を下げて少しでも溜飲を下ろそうとする。しかし、そんなことをチマチマやっていても決して自分の生活が元に戻ることはない。公務員の給与引き下げは名目GDPに下降圧力を加えるものである以上、他人の給与が下がったと喜ぶのは、自分の首に掛かったロープを絞めるのと同じことだ

 以前のブログにも書いたが、自分の収入や給与がどこから来るのか想像できない者や実体経済において個々の企業や家計が相互に連関し合いながら支出と収入を創出し合っていることを理解できない者が多すぎる。

 「カネは天下の回りもの」という諺を知ってはいても、そのシステムを実体経済や実生活レベルに落とし込んで理解できないでいるのだろう。

 だが、先週末に各局で放映されたバカマスコミによる東日本大震災関連の幼稚な報道姿勢やそれにつられてやたらと“絆”を連呼する軽薄な視聴者を見ていると、『改革』という言葉が国民の生活を真に向上させる意味合いで実践されるのは何時になることやらと暗澹たる気持ちになる。