うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

地図が読めない人、読もうとせずに諦める人

 長きにわたり日本を覆い尽くしてきた閉塞感はどこから来るのか?

 その答えは「デフレ」による不況であることは論を俟たない。

 では、そのデフレをもたらした原因は何か?

 これについては、数年にも及ぶ不毛な議論を重ねた末に、ようやく「需要の不足」にあるという結論が共有されてきた。実体経済の動きを冷静に見つめれば、無駄な神学論争を重ねるまでもなく、当たり前に行きつきそうな結論なのだが、それが世間に認知されるようになったのは最近のことだ。

 そもそも、これまでは、日本がデフレに陥っていることすらなかなか認めようとしない連中(政府だけでなく学者やマスコミも)が多く、日本政府が公式にデフレ不況に陥ったことを認めたのが2009年11月というのだから呆れるほかない。(2001年3月にもデフレ宣言しているが、“穏やかなデフレ”という表現で危機感が感じられないし、その後目立ったデフレ対策も行われていない)

 政府が、しぶしぶデフレに陥っていることを認めたかと思えば、今度はそこから脱却しようという真っ当な議論ではなく、デフレの原因に関する的外れな推理が横行し、肝心の景気対策はすっかり放置されてきた。

 デフレの原因に関する怪しい論説はいろいろとあったが、代表的なものとして、日本の産業の生産性や技術競争力の低下、既得権益にしがみつく業界の規制緩和不足、グローバル化への対応遅延、労働市場規制緩和不足、国債問題、海外からの低価格品の輸入増加などが挙げられる。

 中には、「日本はデフレではない」などとのたまう微笑ましい学者(知的レベルが疑われる)もいたが、2011年3月2日に衆議院財務金融委員会に出席した白川日銀総裁から、「日本のデフレの原因は基本的に需要不足にある」との見解が発表された。なにせ、財務省と並び、デフレ対策を拒否してきた双璧とも言える日銀総裁の口から、白旗が挙げられたのだから“デフレの原因は需要不足にある”ということで決着がついたと言えよう。

 この「需要不足」を生み出しているのが「デフレギャップ(潜在供給力と実需との差異、供給力を下回る需要)」の存在である。

 デフレギャップの大きさには諸説あり、20-50兆円と大きな開きがあるものの、少なくとも20兆円以上あるというのが一般的な理解だろう。

 デフレからの脱却を目指すのならば、最低限このデフレギャップをゼロにする必要があるが、そもそもデフレギャップの意味を理解してない論者も多い。

 デフレギャップは潜在GDPと現実のGDPとの差異(GDPギャップ)でもあるから、デフレギャップが20兆円あるという場合の“20兆円”は、あくまで付加価値額ベースであり売上高とは異なるだろう。例えば、日本国内の全産業の付加価値額の売上高に占める割合は16-17%程度と言われており、ここから逆算すると、20兆円のデフレギャップを解消するためには、あくまで単純計算だが、売上高ベースに換算してざっと120兆円もの巨額になると思われる。

 バカの一つ覚えのように規制緩和内需拡大を訴える連中は、医療や介護、農業分野の規制を緩和すれば新たな需要が生まれるなどといい加減なことを言うが、これらの産業の成長を阻害しているどんな規制をどの程度緩和すれば、この莫大なデフレギャップを解消できるというのだろうか。

 デフレ脱却の方法を巡っては諸説飛び交う状態にあり、これが有効な対策の実行を遅らせている。デフレ脱却の方法またはデフレへの対処を巡っては、おおまかに次の三つのカテゴリーに集約される。

 一つ目は、日本が陥ったデフレの原因を競争力低下によるものとし、供給力の強化や生産性の向上が重要とする考え方で、既得権益にしがみつくゾンビ企業の殲滅にも熱心なあまり失業率のUPに対する貢献には多大なものがある。

 政府や与野党の執行部層、官僚、経団連などの中堅規模以上の企業団体、エコノミスト、マスコミなど社会的地位や影響力の高い層に支持され、ここ10~15年にわたり主流な位置を占めており、これは日本だけでなく他の先進諸国も同様である。(だからこそ欧米諸国が雁首揃えて「日本病」に罹っているのだが…)

こういう考え方をする者は、戦後のモノのない時代から高度成長期に至る辺りで思考が止まっている。旺盛な需要に技術の進歩が追い付けなかった時代の遺物と言える。

 いつもアップルとかサムソン(最近ノキアの名前が出てこないが…)を引き合いに出し、魅力的な商品開発やグローバル化への対応を訴えるが、需要が縮小し続ける最悪の経済状態を無視した夢物語に過ぎない。

 供給が新たな需要を生み出せたのはモノのない前時代までのことで、生産力が飛躍的に向上して魅力的な商品が溢れ返る現代には通用しない。これからの経済対策は、高度化する供給サイドに見合う需要を財政・金融政策を通じてスピーディーに創出することが重要であり、時代遅れの思考に凝り固まったままでは対応できない。

 二つ目は、経済成長そのものを諦めて身の丈に合った生活をしようというデフレ容認論的な考え方である。

 こういった考えは、もともと政治や経済に関心がない、あるいは縮小する経済環境への対処法が判らない層、反原発や環境問題などに熱心な層(+ブータンに憧れる世捨て人)などに受け容れられている。彼らは、マスコミが垂れ流すいい加減な情報に流されやすく日本の将来を悲観して右肩上がりの成長を諦めている風を装いつつも、文明生活への中途半端な執着心を捨て切れないでいる。

 この手の怠け者は、経済成長が止まってしまえば、合わせるべき“身の丈”が年を追うごとに小さくなってしまうことに気付かないから困る。現状の生活基盤や社会基盤が経済成長によってもたらされているという当たり前の事実に目を向けるべきだろう。

 そして三つ目は、デフレの要因である需要不足を解消するために財政政策や金融政策を実行して需要を拡大させ、長期的に供給力の維持向上を図ろうとする考え方である。

 最近でこそネットを中心に支持を集めつつあるが、未だ少数派で、公共事業悪玉論や日本の財政危機説が蔓延している現状では、端から無視されるか非国民扱いされるのが関の山だろう。

 しかし、現状ではどれだけ異端視されていても、先に述べたようにデフレの原因は需要不足にあるという認識は共有されているのだから、病根を絶つための適切な対策を検討して行けば、イヤでもここ(財政政策+金融政策のパッケージ)を避けては通れない。

 日本のように供給力や生産力が高度に発達し、国内における資金調達力も十二分に備わっている国であれば、適切なデフレ対策に対する答えは極めてシンプルだ。

 目的地までの地図はあるのだから、それに沿って進めばよいだけの話である。つまり、デフレ脱却という目的に辿りつくには、供給力に見合った需要を創り出すべく十分な量の資金を実体経済に広範囲に放出するという当たり前の対策を実行すればよい。

 公共事業は無駄を生むとか政官業の癒着が心配とかいった類のレベルの低い些末事を気にしていては、国の進路を誤りかねない。

 バブル崩壊以降の日本では、1997年の橋本政権による消費税増税や2001年以降の小泉アホ政権による構造改革新自由主義の横行という需要抑制政策を長期的かつ強権的に実行してきたが、この間、経済指標は何一つ好転していないばかりか悪化の一途を辿っている。この14-15年にも及ぶバカげた社会実験は、マスコミに煽られた国民から熱狂的な支持を得てきたが、雇用や収入など生活基盤の崩壊や生産拠点や技術の海外流出による国力の低下を招いただけの結果に終わった。

 愚かな選択に対する代償は余りにも大きく、とりわけロストジェネレーション世代以降の若者層は大きな負担を背負い込まされているが、日本の将来を支える大切な世代を決して見放してはならない。

 そのためには、こういう逆境の中で、ますますデフレを深刻化させる誤った教義や無謀な精神論が跋扈するのを見逃す訳にはいかない。

 成長を諦めて試合を放棄するような無責任な世捨て人が国民の大半を占めるようになったら日本も終わりである。