うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

成長からの逃避や諦めこそが日本病の原因

 PIGS問題や米国債の格付け引き下げ問題など欧米諸国の経済状態の悪化を懸念する動きが広まっている。国債のデフォルトや金融派生商品に関わる不良債権問題に翻弄される中で、彼らが信奉する金融政策の効き目がなく財政赤字ばかりが積み上がる様を見て、当ブログで以前にも指摘したように、“日本病”あるいは“日本化”といった揶揄が市場関係者やマスメディアなどから浴びせられている。
 そして、彼らは、次の点から欧米諸国が日本病から立ち直る可能性に対して悲観的である。
① 巨額の財政赤字問題を抱え、今後の財政支出の余地が限定されること。
② 金融緩和政策で溢れた資金が金融市場や商品市場に流入して原料コスト高を招く一方で、肝心の投資刺激策としての効果が薄いこと。
③ 中国をはじめ労働コストの安い新興諸国との競争が激化し、生産拠点や技術・雇用の流出を防ぐのが難しいこと。(日本の場合はこれに加えて円高のハンディを負う)
④ ③に伴い国内の雇用は縮小を余儀なくされ、雇用条件の悪化は免れないこと。
⑤ 高齢化・少子化が進み国内市場の縮小が避けられないこと。
 こういった問題は、あらゆるメディアを通じて厭きれるほど報道されているが、その殆どは、もうこの流れは変えられないとか後戻りはできない、あるいは変えるべきではないといった論調で語られる。

 そのうえで、右肩上がりの時代は終わったとか、グローバル競争の時代だからといったキャップを勝手にはめられたうえで、構造改革を断行しろとか、付加価値を創造すべしとかいった根性論を押し付けられるのがオチだ。だが、ありもしないユートピア論をいくら唱えても、現実には経済は好転せず所得や売上は増えないから消費や投資が落ち込み、不況のスパイラルに陥ってしまうしかない。そしてまた、カネをかけずに(財政出を忌避したまま)事態を打開しようとして、現実逃避的な精神論や根性論(=○○改革という名の念仏)が跋扈するといった馬鹿げたループを我が国は20年前から繰り返してきた。

 当然ながら、日本においては上記に挙げた5つの問題には十分な対策があり、それらを着実に実行することにより経済環境を大きく修復させることができる。

①については、30~40兆円ともいわれる巨額のデフレギャップ、250兆円にも及ぶ対外純資産、国内企業の莫大な生産能力、毎年10数兆円にもなる経常黒字など財政支出を拡大させる余地は十二分にある。

②については、これまでの金融緩和一辺倒の政策を改め、財政政策とリンクさせることにより実体経済への資金供給を拡大させて経済の真水部分を刺激するとともに急激な金利変動を抑制することができる。同時に、金融市場や商品市場での金融賭博行為を規制するために、そういった市場への参加資格者を実需のある者に限定するよう規制すべきだ。要りもしない大豆や原油相場での賭け事を禁止し、投資のリターンを求めるのなら実業への投資を通じて一定のリスクを負うように規制すべきだ。十分に時間を掛けて財政支出を継続させ、広く実体経済にビジネスチャンスを提供して資金を供給して行けば、景気や雇用の拡大への期待が醸成され、消費や投資を刺激することにつながる。そのような経済環境を実現できれば、怪しげな金融商品を買わずとも、実体経済内での投資で十分なリターンが期待できるようになる。

③や④は、自称グローバル企業が自ら招いた厄災とも言える。富士通の携帯電話事業部が生産拠点を国内に集約したように、工場や雇用の国内回帰を進めるべきだ。見かけの経済規模は大きくなっても、新興諸国の政情の不安定さや社会的モラルや知財への意識レベルの低さは相変わらずで、一向に改善する気配はないし、克服しようとする意欲も感じられない。このままでは、技術や知財権の流出は防ぎ得ず、多大な開発コストが無駄になるばかりだ。現地の役人に多額の賄賂を巻き上げられた挙句に、大した売上も上がらぬうちに都合よく法律を変えられたり、現地の企業に技術をパクられたりして泣き寝入りしている企業は珍しくない。

 不況に苦しむ日本人や日本企業が、気前よく新興諸国へ雇用や所得・技術などをプレゼントする様は滑稽であり、馬鹿げた所業と言える。そういったものは、本来、新興諸国が自らの努力で獲得すべきもので、人件費の安さだけを売り物に都合の良い部分だけを先進諸国から巻き上げようとする怠け者に手を貸す必要はない。

⑤の高齢化や少子化は、日本だけの問題ではなく一部を除く先進諸国に共通する課題だ。問題なのは、その中で日本だけが経済成長できていないということだろう。マスコミ報道で少子化が大げさに伝えられるせいか、皆、日本の人口が大きく減少したような気になっているが、平成20・21年と対前年比で人口は減ってはいるものの、▲0.06%人(H20),▲0.14%(H21)と誤差の範囲でしかない。

 また将来予測でも平成47年に▲0.85%、平成67年に▲1.1%という水準である。(総務省統計局資料より) この程度の水準であれば年間数%の経済成長で十分にカバーでき、人口の僅かな減少を経済停滞の言い訳にするべきではない。GDPを巡航速度で拡大させ得る政策を普通に実行して、国民一人当たりの可処分所得を数%ずつ増やしていけば何も問題はない。

 過去の歴史を振り返ると、例えば江戸時代は出生率や死亡率がともに高く、全体を通して観れば大きな変動はなくほぼ一定範囲の人口規模であったようだが、有名な享保・天明・天保の3大飢饉をはじめ自然災害にぜい弱な社会体制であったため、短期間で観ると割と大きな人口変動に見舞われている。

 下図のとおり寛政10年から文化元年の人口減少率は年平均で▲0.9%と現代の感覚で言うと110万人もの人口減少に見舞われているし、先に挙げた3大飢饉でも餓死者が数10万から100万人近くになるなど現代の感覚からすれば想像を絶するような厄災に見舞われている。当時は、現代のような食料の保管・供給体制や医療体制など望むべくもなく、せいぜいお助け米や粥の供与くらいしか対策もない中であったにもかかわらず、先人たちは苦労や努力を重ねて江戸時代の末期まで大きく人口を減らすことなく社会体制を維持向上させてきた。それを思えば、文明社会に生きる我々が現状程度の少子化に絶望するなど滑稽ではないか。

 少なくとも、需要不足による不況という現状分析は広く共有されているのだから、これを克服するために必要と思われる最もノーマルな経済対策を速やかに実行すればよいだけだ。その結果、経済環境が好転し、社会体制が落ち着きを取り戻して国民の雇用や所得に安定感が戻れば、自然と人口の減少にも歯止めがかかるだろうし、将来的に増加に転じることも十分に期待できる。
 

 怪しげな新興宗教が唱える終末思想を信じるが如く、日本の経済成長や社会体制の発展を放棄したり諦めたりして、改革だとかグローバル化などという空虚な言葉に逃げ込むのは単なる努力不足だと言える。

 成長から逃避することや現状を打破しようとする意欲や努力を放棄すること、そして、そういった愚かな思想や姿勢が放置されていることこそが日本病の原因そのものなのだ。

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