うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

グローバル化の信奉者は単なるおのぼりさん

 震災が起こる前からデフレに蝕まれてきた日本では、社会保障・医療・教育・文化・雇用・科学技術・技術革新・国土保全・インフラ整備・治安・防衛・行政運営など社会基盤に関わるありとあらゆる分野で大きな綻びが露呈している。それらの問題の根源を探ると、必ずといってよいほど財源問題に行きつくことに気付かされる。過疎地の医療問題しかり、津波に破壊された瓦礫の撤去問題しかり、何だかんだと言いながら、最後にネックになるのは財源がないということだ。別に人材がいない訳でもなく、技術的に不足があるわけでもない。ただ単にカネがないというとてもシンプルな問題である。今や日本が抱える最大にして唯一の問題は、この財源問題といっても過言ではない。

 今の日本で『財政支出』は放送禁止用語もしくはNGワード的な扱いを受けており、それを声高に主張するのは勇気が要る。1千兆円にも積み上がった国債残高に多くの国民は縮み上がってしまい、国債発行や財政支出を求めようものなら、気が触れたと思われるか非国民扱いされるのがオチだろう。

 以前から、財政支出公共工事=利権まみれの土建屋と政治家との癒着というマスコミが垂れ流したイメージが浸透しているせいか、公共事業に関わる事業者が楽をして儲けているかのように捉える見方が強い。現に、ものづくり系の企業(製造業)は、土建業者を見下す風潮があるのも事実だ。納入先からの厳しいコストダウン要求に応えるべきコツコツと企業努力を重ねてきた(単なる下請けいじめなのだが…)彼らにすれば、談合で競争から逃れて公共事業で潤ってきた土建業者など語るに落ちるとでも言いたいのだろう。

 だが、公共事業をまるでタダでカネを配っているかのように勘違いするのはいただけない。公共事業とは、官から民へ事業と予算を下すことによって関連産業の雇用機会の維持拡張と技術革新を図るものであり、その事業費は当然労働や役務の対価として支払われるもので、何もやましいことはない。皆、口では公共事業など無駄だと言いながら、新しい道路ができれば平気で利用するし、新しい文化ホールができたといってはサークル活動で使ったりしているはずだ。あの道路は税金の無駄遣いだから絶対に使わない、なんて言う人を見たことがない。

 公共事業費が1980年代の水準にまで落ち込んだと言われる厳しい時代の中で、土木・建設など公共事業の権化のような業界でも互いに切磋琢磨して技術向上に取り組んできた実績がある。今やあらゆる工事で従来よりも工期は大幅に短縮されており、工事中に排出された瓦礫などの産廃処理もルール化されている。冬季間の工事など考えられなかった北海道や東北でも、一年を通じて工事ができるようになっているし、使われる鋼材も軽量化され強度もUPしている。むろん環境への配慮基準も厳しくなり、ひと昔前の公共工事のイメージとはガラリと変っている。自動車や電機関連産業、あるいはIT・バイオなどの先端産業だけが努力してきた訳じゃなく、土木・建設業者を怠け者のように悪しざまに言うのは認識不足も甚だしく、自惚れるのもほどほどにすべきだろう。

 自動車や電機に代表される経団連経済同友会(経団連よりも気持ち悪い団体)などといった経済団体は、己の本分をわきまえずに小泉・竹中構造改革路線の片棒を担いで、ひたすら公共事業財政支出の削減を強要してきた。これにより、公共事業費や地方交付税交付金の大幅なカットが行われて地域の疲弊や雇用の崩壊を招き、国内の需要が大きく落ち込ませる結果となった。

 内需の低迷による負の影響は、経団連や同友会会員企業にも及び、彼らも少なからぬ傷を負い国内販売実績を落としている。彼らの頭の中が正常ならば、この時点で自らの行状を反省して方針転換するはずなのだが、構造改革新自由主義への信仰に殉じる選択(隠れキリシタン並みの信仰心)をした彼らは、グローバル化という時代錯誤の言葉に導かれて、勝算の乏しい海外市場の開拓に勤しんできた。

 だが、奴隷並みに低い人件費やコロコロ変わる法制度、現地の役人の汚職、技術の盗用、人材の流出などといった障害に阻まれ、一部を除いて十分な収益を上げているとは言い難い。そのツケは、国内の従業員のリストラや異常なまでの下請けいじめの形で押し付けられた揚句、国内でリストラされた中堅以上の技術者が、高給をエサに技術や知見ごと新興諸国に横取りされる始末だ。最近問題になっている中国の新幹線技術の特許申請問題などは、その顕著な例といえる。中国のやり方は泥棒そのもので糾弾されるべきだが、国内への投資やカネを惜しんで大切な人材や技術を新興諸国にダダ漏れさせてきた国内大手企業の幼稚な経営判断こそ大いに批判されるべきだ。彼らのやっていることは、さんざん自分たちの好き放題に部屋を汚しておいて、虫が湧いたと慌てて殺虫剤を探し回っているのと同じことだ。

 財界の連中も、政府の財政支出に文句を言うのではなく、むしろ支出を後押しして国内需要を活性化させる方が、はるかに自社の売上や生産性の向上に結びつくはずだ。財政支出をタブー視し、国内市場の縮小を前提条件としていては何も解決しない。

 インドで20万円のポンコツ自動車相手に不毛な競争を強いられるよりも、公共工事で懐が潤った土建屋の社長に500万円のクラウンを買わせる方が楽だろう。体力が落ちるからと言って、便利な自動車を使わずに自転車に乗り続けていては、それこそグローバルな経済成長競争に置いていかれる結果になる。

 

 彼らはまた、中国や韓国、インドの若者たちが大挙して欧米諸国に留学や就職する(単に国内にまともな仕事がないだけ)のを手放しで誉めそやす。そして、返す刀で、日本の若者は内向きでだらしないと苦言を呈する。日本の右肩上がりの成長は終わったとか、国内市場に頼っていては生き残れないとかいう妄言を信じ込んでいるためか、グローバル化に積極的でない日本の若者を見るとイライラするのだろう。だが、その割に自分は日本にどっかりと腰を据えて一向に海外に出て行こうとせず(出て行っても到底通用しないだろうが)、立場の弱い若者相手に威張り散らしている。

 そもそも、21世紀にもなってグローバル化という言葉に目をキラキラさせるのは、明治・大正時代並みの思考回路しか持っていない証拠だ。日本が高度成長期を経て世界で2-3位の経済大国の地位を占めてから数十年も経ち、技術大国・経済大国と言われて久しく、海外渡航者数も年間1,600万人にもなる。

 とっくの昔に日本は、諸外国から、それこそグローバル化の対象として羨望の眼差しで見られているのに、いまだに海外=欧米=グローバル化という単純な図式しか思い描けず、遣唐使や遣隋使の派遣に熱心な国民や企業経営者が多くいるのは嘆かわしいことだ。彼らこそ時代錯誤もいいところだろう。