うずらのブログ

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永山基準に逃げ込むな

 先日、東京・歌舞伎町のマージャン店経営者ら2人を殺害したなどして殺人や強盗殺人などの罪に問われたケースで、裁判員制度として初の死刑判決が下された。本来なら、これが2例目になったはずだ。

 既に報道されたとおり、東京で耳かき店店員ら2人が、ストーカー行為をしていた被告に殺害された事件に対して、無期懲役という理不尽な判決が下されただけでなく、何故か検察も控訴を断念してしまった。被害者の親族のお気持ちや無念さ、被告への憤りを考えると、はらわたが煮えくり返る思いだ。

 この事件では、一方的にストーカー行為をして被害者の女性に付きまとった挙句に、何の罪もない家族まで殺害するという残虐な事件だったにもかかわらず、被告が反省している、(刃物を持っていたのに)計画性がないなどといった点に加えて、裁判員制度初の死刑判決か…とバカなマスコミが騒いだせいもあり、裁判員に余計なプレッシャーがかかってしまったようだ。それに、あってはならぬことだが、風俗店に近い接客店に勤務していた被害者を蔑視するような見方もあったのではないか。被害者に目立った落ち度はなく、2人も殺害されたことから、当然死刑判決が出ると予想されたが、裁判所やマスコミがお決まりの“永山基準”を持ち出して死刑判決を回避させるような雰囲気を作ってしまい、裁判員も急に人を裁く重さなどといった耳触りのよいフレーズを口にするようになってしまった。

 人を裁く重さ、命の重さなどといった美しいフレーズは、被害者とその家族にこそ向けられるべきで、理不尽に人を殺害した被告とは無縁の言葉であろう。命の重さとは、通常の社会の構成員(普通に暮らしてる人々)にのみ許されるもので、犯罪者のそれは、当然数段低く見るべきだ。反省をしている、計画性がなかった、心神耗弱状態であったなどといたチンケな理由で減刑してはならない。人を殺して反省するのは当然のことで、計画性の有無や心神耗弱などは殺人という重大な結果を招いたことを何ら軽減するものではないからだ。

 被害者とて漫然と生きながらえてきた訳ではなく、幼い頃から親や周囲の人々が愛情をかけ、期待を込めて育ててきたのだ。その積み重なった大切な重みを、踏み躙る行為は到底許されるものではない。ましてや、被害者側に重大な落ち度でもない限り、被告の心の闇とか、親の愛情が不足していたなどといった言い訳は考慮する必要がない。刑法第199条の条文に沿って、粛々と死刑から順に検討すべきである。

 そもそも裁判員制度は、判決の量刑が検察の求刑の7~8掛けになる司法相場や被告の反省・計画性・心理状態・成長過程など被告側の事情ばかりを考慮する裁判のあり方など、いわゆる司法業界の馴れ合いを廃して、司法の場に一般市民の良識を持ち込もうという考えで始めたのではないか。ならば、永山基準などといった死刑判決を回避するための言い訳に過ぎない内部規定を過度に神聖視するのはおかしいのではないか。永山基準は、あくまで永山事件という個別の事案にのみ適用されるべきもので、それを金科玉条の如く崇拝してはならない。これでは刑法の上に、永山基準という屋上屋を架してしまうことになる。

 身近な人が殺害されれば、遺族が憤るのは当然のことである。その応報感情を司法はしっかりと受け止めるべきだ。裁判官も裁判員も、いたずらに被告の立場を重んじるマスコミの騒ぎに耳を貸す必要はない。自らの良識に則り常識的な判断をすれば、社会が納得する真っ当な結論に至るはずだ。