うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

賃金が上がらない原因は?

『日本人の給料がほとんど上がらない5つの要因~90年代以降の平均上昇額はわずか7万円程度』(東洋経済ONLINE 岩崎博充:経済ジャーナリスト)

https://toyokeizai.net/articles/-/267883

 

上記のコラムで岩崎氏は、国税庁の「民間給与実態統計調査」のデータを基に、日本人の平均給与は1990~2017年の27年間で425万円→432万円と、わずか7万円しか上がっていないと指摘している。

 

そればかりか、1997年=100とした場合の「実質賃金指数(2016年基準)」で見ると、アメリカ(115.3)、イギリス(125.3)、フランス(126.4)などが1~2割以上も伸ばしているのと対照的に、我が国は89.7と逆に1割以上も下落していると喝破する。

 

製造業が死滅したかのように映るイギリスでさえ2割以上も実質賃金を伸ばせているのに、過労死が頻発するほど働き詰めの我が国の賃金指数が20年も前より減っているなんて、絶対あってはならないことだ。

 

我が国がこうした悲劇や敗北の憂き目に晒された原因は、ひとえに消費や投資の長期停滞に伴う内需の不振によるものだが、長期不況と所得縮小を惹き起こした緊縮主義者や新自由主義者のバカどもは、ちゃんと反省しているのか?

 

さて、コラムの中で岩崎氏は、日本の賃金が上昇しない要因として、

労働組合の弱体化

②非正規雇用者の増加

少子高齢化の影響

内部留保を貯め込んで賃金を上げない経営者

規制緩和の遅れがもたらした賃金低迷

の5つを挙げている。

 

上記①~④には筆者も同意する。

特に、岩崎氏が④について、「バブル崩壊以前は、社員こそ最大の資源、という具合に会社も賃上げに積極的だった。優秀な人間は、一生をかけてでも育て上げていく、というのが日本企業の大きな特徴だった。それが、バブル崩壊以後は雇用さえ確保しておけば、賃上げなんていう贅沢は言わせない、という雰囲気に変わってきた」と述べ、企業が人材投資を怠り雇用の質を貶めてきたのを批判する姿勢は正しい。

 

ただ、残念ながら最後の⑤が無茶苦茶で酷い内容だ。

 

彼はこう説明する。

「通信や交通エネルギーなどの公共料金分野は、規制緩和の遅れで現在も新規参入を阻害し価格の抑制や引き下げが遅れてしまった。価格が上がらなかったことで顧客満足度が増し、製品やサービスの価格が低く抑えられたまま日本経済は推移している。

そのツケが、従業員の賃金の上昇を抑えてきたといっていい。スーパーやコンビニ、スマホ(通信)、宅配便、外食産業といった業種では、価格が低く抑えられてきたために、賃金がいつまでたっても上昇しない。

企業経営者や行政の怠慢によって、適正な価格競争が起こらなかった結果といえる。(略)」

 

規制緩和の遅れ】→【価格上昇を抑制】という謎理論にはまったく恐れ入る。

彼は、「企業経営者や行政の怠慢によって、適正な価格競争が起こらなかった」と嘆くが、事実は真逆で、小泉バカ政権以来の野放図な規制緩和により行き過ぎた価格競争が生じ、そのせいで企業の売上や利益が伸びず賃金抑制につながったのは、誰の目にも明らかだろう。

 

平成不況を演出したのは、政府が推し進めた暴力的かつ無計画な規制緩和や、中小企業の財務を破壊した激烈な価格競争が惹き起こした内需縮小のせいであり、その引き鉄を引いたのは、緊縮主義者が好む、日本はもう成長できない、成長すべきではないという「反成長思想・反国民主義」である。

 

無計画な規制緩和によって、業種・業界の垣根取り払われ、財務力に乏しい中小企業は異業種や大企業との競争に、我が国自慢の製造業は低賃金労働と技術盗用を屁とも思わぬ外国企業との競争に晒され、体力を擦り減らし続けてきた。

岩崎氏が紹介した日本の実質賃金の驚くべき凋落ぶりの原因もこの辺にある。

 

近頃の政治家や官僚はTPPだEPAだと、体力の弱り切った国内産業を寒風に晒して苛め抜けば財務が筋肉質に生まれ変わると勘違いしているが、野放図な規制緩和や市場開放は国内市場の価格破壊と市場収奪を招くだけで、岩崎氏が嘆くような従業員の賃金上昇を抑制するアンカーにしかならない。

 

安倍政権や与党の連中は、【野放図な規制緩和や市場開放】→【効果の乏しい産業強化政策】といった“強烈なブレーキとアクセルのチョイ踏み”という意味不明な政策をとり続けてきたが、その結果が“世界でたった一つの実質賃金マイナス国家”という迷惑な称号だ。

 

くだらぬ規制緩和や緊縮政策は、反成長主義を助長する愚策でしかない。

このまま、“規制緩和の遅れが賃金低迷をもたらす”なんて、とんでもない勘違いをし続けると、20年後の我が国の賃金指数は50~60くらいにまで落ち込んでいるだろう。

 

規制緩和を手放しで礼賛する馬鹿者には、「いいかげんに目を覚ませ」と厳しく叱りつけておきたい。

貨幣をツールと割り切る胆力

前々回のエントリーで、MMT(Modern Monetary Theory現代金融理論)を支持するアメリカの経済学者が、財政赤字を悪とする周回遅れの古株学者を相手に奮闘している様子をご紹介した。

 

ご紹介したステファニー・ケルトン氏のようなMMT論者は、通貨発行権を盾にした政府の将来支払いに対する非制限的な支払い能力を明示したうえで、

①積極的な財政政策の実行(財政赤字への懸念払拭)

財政支出の対象や費目の拡大(公共投資だけでなく社会保障的な給付金も)

をきちんと訴えており、この点を非常に好ましく思っている。

 

だが、MMT論者、特に国内の論者の多くは、いまだに、貨幣負債論や租税貨幣論といった、どうでもよい枝葉の部分への強いこだわりを捨てきれず、MMTが目指すべき経済政策や、その先にある適正な社会の在り方に関する考察がなおざりになっているのが残念でならぬ。

 

MMT論者は、自分たちの貨幣観はリフレ派とは違うと主張し、しきりに距離を取りたがるが、

・貨幣を負債視したがる(=野放図に増やせない)こと

・経済の起点を金融や負債の拡大に置きたがること

・政府から家計への直接給付をフリーランチと蔑視しがちなこと

・“カネか、雇用か”、“インフラか、ベーシックインカムか”という二者択一論を語りたがること

政府紙幣よりも国債みたいな負債に頼りたがること

財政支出拡大の話をハイパーインフレとセットで語りたがること

・心の奥底では、政府の非制限的な支払い能力に対する疑念を捨てきれないこと

・持説への反論に対するレスポンスが、「教科書を読め‼」しかないこと

・反論に対して具体的な回答を避け、逆に相手へ質問を返したがること(貨幣という負債を誰が、何を以って、何時までに返済すべきか、という簡単な質問への回答が、いまだに帰ってこない…)

などといった点から、MMTとリフレ派の経済観はかなり近似しているのではないか。

 

片や、国債増発による財政政策を訴え、片や、金融緩和万能論に固執する違いはあるものの、両者間にある、

・社会的弱者(いまや国民の大半がここに属するにもかかわらず)の救済に対する視線の冷たさ

・貨幣を負債の一種と捉え、その配布量に制限を掛けたがる点

・金融や負債の拡大を重視したがること(名称にも“金融”を使いたがるし…)

・経済基盤や国民生活の崩壊に対する危機感の甘さ

といった共通項を見るにつけ、せいぜいカツ丼とカツ煮定食くらいの違いしかないと思っている。

 

筆者は、MMTの根幹は、政府の非制限的支払い能力を活用した社会的課題のスピーディーな解決にあると考えている。

 

よって、「MMTは経済政策の是非を問うものではなく、現実を説明しているだけ」と責任回避の煙幕を張るのは無責任極まりないし、一般人には理解不能な貨幣負債論や租税貨幣論のような空疎な書生論などゴミくずでしかない。

 

経済的苦境に苦しむ国民の生活を一秒でも早く救い出すために何をすべきか、もっと真面目に考えてもらいたい。

くだらぬ貨幣負債論を唱える前にやるべきことがあるはずだ。

 

だいたい、以前にも指摘したが、MMT論者の貨幣負債論に関する説明はあまりにも雑すぎる。

 

「円は日本政府の借用書、つまり、貨幣は日本政府の負債。日本政府は借用書を書き、国民からモノやサービスを借りている」

「“誰かの資産=誰かの負債”という経済の大原則から、通貨は政府の負債でしかありえない」

「貨幣が負債の一種だと、ランドール・レイの教科書に書いてある」

 

こんな説明だけで、貨幣負債論が認められると思ったら考えが甘すぎる。

 

そもそも、国民は円を日本政府の借用書だなんて思っていない。

 

貨幣を、国内に存在するあらゆるモノやサービスと強制交換できる資産だと思っているからこそ喜んでそれを受け取り、欲しがるのであって、貨幣が政府の借用書だなんて言ったら、「国の借金を俺たちに押し付けるのか~」と逆ギレされるだけだ。

 

また、政府は発行した円を使い、国民や企業からモノやサービスを“買い取っている”のであって、“借りている”のではない。

 

公共事業や福祉事業によって、政府と民間経済主体との間に生じるのは、労働の提供と対価の支払いであって、賃借や債権・債務関係ではない。

 

MMT論者は、森羅万象の取引を賃借や債権・債務の視線で捉えたがるあまり、「誰かの資産=誰かの負債」論を貨幣にも援用できると思い込んでいるようだが、はっきり言って「誤用」であろう。

 

それが真であるのは、銀行の預貸金や政府の国債のような双方の間に債権・債務関係が成り立つ場合のみであり、モノやサービスの売り買いみたいにその場で決済・清算されてしまうものにまで経済の大原則とやらを被せるのは不適切だ。

 

“教科書に書いてあるから~”の類いに至っては、レベルが低すぎてコメントする気にもならない。

「本当に貨幣が負債なのか否か、自分の頭を使ってよく考えろ!」と言っておく。

 

MMT論者は、雇用保障プログラム(JGP)、つまり、政府や地方自治体による雇用創出事業を勧めており、これはこれでよい。

ただし、既存の地域おこし協力隊みたいな不安定かつ低賃金な短期雇用をいくら増やしても大した効果は生まないだろう。

 

ジョブトレーニング的な“雇用対策にきちんと取り組んでますよアピール”はもう要らない。

そんなものは、失職者に無理やり名刺を与えるための一時しのぎでしかなく、職務経歴をバージョンアップさせるのにクソの役にも立たず、失職者を正規雇用の座に就かせるための期間をいたずらに浪費するだけに終わる。

 

MMT論者がお嫌いなベーシックインカムにしても同じだが、MMTは政府の非制限的財政支出能力を謳う以上、財出の使い道をやたらと選別したがる悪い癖をいますぐに止めてもらいたい。

 

失業者対策を行うに当たり、おためごかしのJGPに逃げるのではなく、堂々と公務員の大増員に言及すべきではないか。

 

我が国の人口当たりの公務員数は他国より少ないし、民から公への人材流入によって、日ごろからお役所批判を繰り返す国民にお役所仕事を改革させるチャンスを与えることにもつながる。

 

また、公務員と民間とで人手の争奪戦を繰り広げることが、いまだに奴隷労働を探し回る民間経営者の意識を変える良いきっかけにもなるだろう。

 

筆者が他者の経済論を評価するに当たり重視するのは、「貨幣を経済拡大や国民生活向上、ひいては国富(生産力や技術力)増強のツールとして割り切って使う度量や胆力があるか否か」という点に尽きるが、貨幣負債論者は、リフレ派同様、その点の覚悟が十分ではないと感じている。

貨幣負債論はリフレ派と同じ運命を辿る

『現代金融理論MMTは「完全なナンセンス」』(ブルームバーグ3/13)

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-03-13/POA9WH6K50XT01

「「現代金融理論(MMT)」否定陣営にダブルライン・キャピタル共同創業者のジェフリー・ガンドラック氏が加わった。

 同氏は12日のウェブキャストで、MMTは「大規模な社会主義的プログラム」を正当化するために利用されている「完全なナンセンス」だと論じた。

 MMTを信奉するエコノミストらは、米国は自国通貨で借り入れているので、返済のためには通貨を発行すればよく、破綻することはあり得ないと主張する。ガンドラック氏は「この議論の問題点は、それが完全に誤っているということだ」と述べ、MMTは長期債の「重大なボイコット」につながる可能性があると付け加えた。

 さらに「この議論はばかげている」とし、「小学1年生には正しく聞こえるかもしれないが、景気が悪化したらどうなるのか」と問い掛けた。

 米国が来年リセッション(景気後退)に陥れば、MMTは単なる理論以上のものになる可能性があるとして、米国がMMTの実験に向かっているかもしれないとも述べた(略)」

 

MMTに関する議論がアメリカで盛り上がっているようだ。

 

同理論は通貨増発による景気刺激策を訴えるものゆえ、予想どおり、周回遅れの緊縮主義者や構造改革派といった“既得権益者”から激しく攻撃されている。

 

「完全にナンセンス」なのは、いくらでも造り出せる貨幣の支出を惜しみ、国内の社会保障プログラムの充実やインフラ整備、技術開発力の高度化、教育の充実といった重要課題を放置したり、自国通貨建て国債の返済を危ぶんだりする“経済ド素人”の方だろう。

 

MMTを含む積極財政派による“米国は自国通貨で借り入れているので、返済のためには通貨を発行すればよく、破綻することはあり得ない”との主張は、経済を理解するうえで極々初歩的な「常識論」にすぎないが、貨幣を負債やペナルティの類いと思い込み、むやみに増やしたり分配したりできないと考えるブードゥー経済論者には、そういった常識すら理解するのが難しいのか…

 

ガンドラック氏は、「(国債償還のために貨幣なんか発行したりして)景気が悪化したらどうなるのか」とマヌケなことを言っているが、貨幣発行を財源とする積極果敢な財政支出の目的は景気を加熱させるためであり、よしんば景気悪化期に実行するとして、「大増税+大緊縮or聖域なきバラマキ」のどちらが景気回復に資するか、小学生でも解るはずだ。

 

こうした議論は、やがて日本のマスコミによっても報じられ、国内にも伝播するだろう。

MMTは、アメリカ以上に頑迷な緊縮脳まみれの日本人にとって刺激の強すぎる理論であり、相当な反発を喰らうであろうことは容易に予想がつく。

というより、端から聞く耳を持たれぬまま、ガン無視される可能性が強い。

 

筆者のMMTに対する立場は、これまで何度も説明しているとおり、

通貨発行権に基づく政府支出の無限性と、それによる社会的課題のスピーディーな解決を訴える部分は大いに賛同する。(→従前からの筆者の主張とも一致するため)

②ただし、貨幣負債論や租税貨幣論のような緊縮主義者をアシストするだけの空想上のゴミくず論は真っ向から否定する

というものだ。

 

これを踏まえて、MMTに関わる議論が我が国に上陸した際に、国内のMMT論者が恥をかかぬよう、いくつかアドバイスしておきたい。

 

まず、彼らに言っておきたいのは、「持論を国民に解ってもらいたいのなら、なぜ、貨幣が負債なのか、自分たちの言う“負債”とはどういう意味なのか、箇条書きで具体的に明示すべき」ということだ。

 

国民の貨幣に対する興味や理解の深さは様々だ。

①貨幣は負債ではない(否定派)

②貨幣を負債呼ばわりするのは違和感がある(懐疑派)

③貨幣は負債だ(肯定派)

 

国民の多くは上記①②に属すると思われるが、これまでの貨幣負債論者の説明は、あまりにも穴だらけで雑すぎた。

「何で貨幣を負債と思うの?」という疑問や質問に対して、「そもそも貨幣は負債なんだよ。そんなことも解らないの? ┐(´д`)┌ヤレヤレ」という不遜な態度から説明をスタートさせるのは身勝手すぎる。

 

“貨幣が負債であるか否か”という初歩的な次元や段階で、周囲から疑念の声が上がっているにもかかわらず、そこをすっ飛ばして、いきなり「貨幣は負債なんです」から説明を始めるのは、真摯な態度とは言えず、正直いって傲岸不遜かつ不誠実としか思えない。

 

だいたい、不況続きでカネのない国民に、“負債だ、債務だ”とがなり立てたところで、「へぇ~お金って負債なんだ。ってことは、国の借金なのか… こんなものを無駄遣いさせられないな」と、かえって消費意欲をシュリンクさせ、国民にカネを使わせるのが大嫌いな緊縮主義者(反国民主義者)を歓ばせるだけだ。

 

貨幣負債論者は、「負債」というネガティブワードの使用を控え、もうちょっとマシな修飾語を探してはどうか?

 

「誰かの資産は誰かの負債」という経済原則を援用した負債肯定論も的を外している。

そもそも、前段の大原則は、双方が債権債務の関係にある場合のみ通用するものであり、他者から借りたものではない貨幣にまで適用するのは不適切だ。

 

既に所有する貨幣の価値や通用力を保障し、その資産性を担保するのは貨幣負債論のようなバカげた空想ではなく、国定貨幣や法廷貨幣の制度を定めた法律であり、ひいては、法の力を担保する(国家を運営する国民の生産力や技術力等に裏打ちされた)国家の存在そのものである。

 

また、「貨幣が負債でないとすると、●●を説明できない」的な言い訳もよろしくない。

そんなか弱い状況証拠を見せられても国民は納得できないし、メソポタミアとかヤップ島のツケ払い帳を引き合いに出されても、頷く者は一人もいないだろう。

 

貨幣負債論支持者は、否定派や懐疑派に対して、きちんと、「●●だから貨幣は負債なのだ」と解りやすく説明すべきだし、何度も言っているように、『貨幣が負債だとしたら、誰が誰に対して、何を以って、いつまでに返済・清算すべきか』という簡単な質問に対して、逃げ回ることなく誠実に答えねばなるまい。

 

彼らの「お金は借りることで発生し、返済することで消滅する」との主張も、お金は「造ること(政府紙幣)」でも発生することを意図的に見落としており、片手落ちとしか言えない。

 

国債増発=お金を借りる=政府債務の膨張」という経路で経済成長の糧を得ようとするのは一つのやり方であり、筆者も賛同する。

 

ただし、企業や家計といった民間経済主体が、投資や消費のために「借りる=債務膨張」に積極的になれるのは、一旦借りた債務を(収益という果実を財布に入れたうえで)将来的に返済できるだけの裏付け(増収・増益)が見込めるという強い確信が必要になる。

 

マクロレベルで売上や収益を上昇させるためには、民間経済主体の実質金利低下期待や債務膨張意欲を煽り続けねばならず、バブル発生と崩壊のリスクと常に隣り合わせにならざるをえない。

 

経済発展の過程において債権・債務が膨張するのは当然の現象だが、こと長期不況からの脱却、つまり、ゼロではなく大幅なマイナス地点からアクセルを吹かすケースのやり方として、債務の膨張に頼るメソッドは、リフレ派による金融緩和万能論と同じく失敗を招くだけに終わるだろう。

 

人々は“債務や負債”に怯えと嫌悪しか感じず、負債縮小の為なら成長や幸福への期待を放棄することすら厭わぬ覚悟を決めてしまっている。

自分たちの生活向上よりも、国の借金とやらを減らすことを優先しても構わないと諦めてしまうバカな国民のなんと多いことか…

 

かような状況下で、「貨幣は負債だから、政府負債が増え続けるのは当たり前」なんてドヤっても、何も始まらない。

 

経済成長に伴い政府負債(国債)が増え続けるのは事実であり、在るべき姿なのだが、貨幣負債論を前提に、これを緊縮脳に染まり切った国民に納得させるのは不可能だ。

 

国民は「負債」という言葉自体に怯えにも似たネガティブな感情を抱いており、政府負債を増やせと叫んだところで、「どうせ、後で重税を課すつもりだろ‼」、「私たちの税金が~」と猛反発を喰らい、「お金は負債なんだろ? なら、国債をどうやって返すんだよ‼ 借金を借金で返すのか??」と馬鹿にされるだけだろう。

 

負債や債務を恐怖する勉強不測の国民を安心させるためには、貨幣を負債呼ばわりしてはならない。

 

多くの国民は、政府が抱える負債は最終的に自分たちが被らねばならないと、妙な正義感に囚われており、「政府の負債拡大→民間経済の活性化→経済発展→所得UP」という簡単なロードマップすら描けないでいる。

 

彼らを安心させるには、何者にとっても負債や債務ではなく、国内にあるあらゆるモノやサービスとの交換価値が保証される絶対的な資産性を有する存在、つまり、『貨幣』を大胆に供給する姿勢を政府が明示することが重要だ。

 

自分たちが税金を搾り取られるのではないかと国民を疑心暗鬼させるのではなく、国民が(高インフレの発生防止という最大の責務を除いて)自分たちの責任外の財源を得て、社会的課題の解決に邁進できる体制や基盤づくりこそ望ましい。

 

その手法を具体化するのが通貨発行権の執行であり、これを既存の国債増発を併せて、もっと積極的に活用すべきだろう。

 

現行の不況下で負債拡大論を先行させるのは、あまりにも筋が悪い。

政府紙幣の増発により国債増発をアシストし、資産・所得拡大論を先行させ、人々が現状の所得に満足し、将来にわたる増収期待に強い確信を得ることができれば、負債は黙っていても増え続けるものだ。

財政赤字を気にするブードゥー教徒

筆者は、3/7にアップした記事『MMTに期待すること』(https://ameblo.jp/kobuta1205/page-2.html)にて、MMT論の支持者に対し、

①一般国民の支持を得られそうにない貨幣負債論と租税貨幣論は一旦横に置くべし

②そのうえで、MMTの根幹である“自国通貨発行権に基づく政府の非制限的な財政支出能力を活かした大胆かつ無選別の財政政策”を積極的に訴えるべき

と述べた。

 

下記のロイター記事によると、MMT支持者の経済学者が、財政赤字限界論に固執する御大級の学者たちを向こうに回し、財政赤字よりも社会的課題解決を優先すべしと訴え、奮闘している。

 

記事で紹介されたステファニー・ケルトン教授が、貨幣負債論や租税貨幣論にどの程度こだわっているかは知らぬが、「財政赤字なんて、社会的課題解決という大目標を前にすれば、取るに足らぬ些末事に過ぎない」という主張が、マスコミを通じて広く周知されることは非常に意義深い。

 

大多数の国民は「財政赤字=絶対悪」と盲目的に信じ込み、財政赤字がもたらす国民所得の増進、技術革新、産業発展、医療や福祉・教育の充実、貧困の根絶などといった莫大な社会的効用に気づくことなく、財政赤字を嫌悪し緊縮財政を受忍することにより、社会問題解決や構造改革のチャンスを自らゴミ箱に放り投げ続けてきた。

 

筆者は、MMTに関わる論争が「財政赤字は悪くない→“財政赤字=積極財政”は社会的重要課題解決につながる良薬だ」という常識が浸透するきっかけになることを願っている。

 

『「財政赤字は悪くない」、大統領選にらみ米国で経済学論争』(ロイター)

https://diamond.jp/articles/-/196615

ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン氏とローレンス・サマーズ元米財務長官は過去3週間、ツイッターやテレビ、新聞のコラム欄を活用して、ニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授に反論を重ねてきた。

 ケルトン教授は、政府予算や財政赤字完全雇用やインフレを実現するために積極利用すべしという「現代金融理論(MMT)」の強固な提唱者で、2016年の前回大統領選ではバーニー・サンダース上院議員の顧問を務めた。

 ケルトン氏の主張に対し、クルーグマン氏は「支離滅裂」と一蹴し、サマーズ氏はワシントン・ポストのコラムで新たな「ブードゥー経済学(魔術のようで理論的に怪しいとの意味)だ」と批判した。(略)

これほどの発想転換は、平時なら思いもよらないだろう。(略)

ケルトン氏に至っては、政府ができるし、やるべきだと考える範囲はもっと広く、債券市場や外国為替市場が許さないことを地球を救う支出を抑制する理由に挙げるのは、かなり筋が悪いと主張する。(略)

 またケルトン氏は、米国の通貨発行権完全雇用や温暖化対策の財源確保などの実現に活用すべきだと論じている(略)」

 

クルーグマンやサマーズらはケルトン氏をこき下ろすくせに、自分たちは、インフラ整備や教育・社会保障の拡大、雇用の確保と質の向上といったアメリカが抱える諸問題を、カネを使わずに完全かつスピーディーに解決できる方法を何ら示すことができない。

(一時、クルーグマンはリフレ派から積極財政派に転向したと言われたが、いまだに未熟なリフレ論から離れられないらしい…)

 

国民に重税を課し、カネを使わせないよう我慢を強いて捻出したカネを財源に福祉や教育、貧困、インフラ問題を解決できると本気で思っているのなら、彼らこそブードゥー経済学にも劣るジャンクと言えるだろう。

 

財政支出を経済発展や国民生活向上に活用しようとするケルトン氏の主張は、次のコラムに紹介されている。

『ステファニー・ケルトン「財政赤字は気にしなくていい」』

http://econdays.net/?p=9268

 

インタビュアーの質問に答える彼女の論をいくつかピックアップしてみる。

 

ツイッター民主党は1.5兆ドルでどんな健全な投資をするのかと聞かれました。こんなことができます。インフラ整備に6500億ドル、公立大学の授業料無償化に7500億ドル、プエルトリコに1000億ドル。あるいは、1.4兆ドルですべての未払い学生ローンの棒引き。または、社会保障拡大に1.2兆ドル。共和党がもうお金なんて必要ないお金持ちにただ同然に渡したがっている1.5兆ドルを、アメリカ国民に渡すのです」

 

「国の財政赤字があるという理由で憤慨して朝目覚めるひとはいません。彼らが怒っているのは、給与が上がらなくなったから、退職後が心配だから、そして子どもたちを学校に通わせ続けられるかどうか心配だからです」

 

「誰も経済がその可能性より低いパフォーマンスをすることを望みません。雇用できる限りの労働力や使える限りの資本の投入をして、経済がその可能性を完全に達成することを、みんな望んでいるのです。ひとびとが条件の悪い雇用のもとで働いたり失業者になったりしてもらいたくはないでしょう?完全雇用がほしいのです」

 

MMTが何を主張しているかというと、アメリカのように自国通貨を発行できる国はギリシャのようにはけっしてならないということです。自国通貨を持つ国の政府は、請求書が払えなくなるような状況に陥ることはありません。アメリカ政府は売られているものは何でもアメリカドルで買うことができます」

 

「もし私がアメリカ議会で支出の許可権限を持っているとしたら、座ってこう言います:「インフラ整備に1.4兆ドル。どうやってやるかって?私がたった今、許可しました。それだけよ」って。政府の支出はセルフ・ファイナンスである(資金調達を自ら行っている)と私がいうのは、政府支出というのは私たちが車を買いに行くときのように資金をあらかじめ用意するわけではないという意味です。(略) 国会議員が、インフラ整備、教育、社会保障の拡大などの何らかの法案を提出します。すると法案の採決があります。例えば、戦争を取り上げてみましょう。「国防にお金を使います」、するとこの法案に各国会議員は賛成か反対の票を入れます。前もって資金調達を手配したりはしません。(略) 要は、議会が支出を許可すれば、お金は使われるということです」

 

「限界は現実の経済の中にあります。もし私がアメリカ政府なら、「すべての国民の健康保険、あらゆる分野の高等教育、そしてインフラ整備の法案を通したい」と言います。私たちにはもっと病院、大学、教師が必要ですし、改良された道路や橋も必要です。もし経済が完全雇用を達成していてもう雇用可能なひとが誰もいなくなったら、どうしたらよいでしょうか。限界は現実の経済の中に存在するのです」

 

彼女の主張を踏まえて、筆者が抱いた感想は、

財政赤字国債累積を心配するあまり、社会的諸課題解決を放置したままにするのは鈍物の証し

通貨発行権の存在を認めておきながら、財政支出の行き先を選別したがるのは愚者の証し

というもので、管理通貨制度が一般化した現在において財政収支それ自体を議論することの愚かさを訴え、財政支出を国民の生活向上を妨げる諸問題根絶のためのツールとして積極的に活用しようとする彼女の経済観を高く評価する。

 

MMT論者が、貨幣負債論や租税貨幣論という子供じみた言葉遊びに躓くことなく、財政赤字にまつわる妄想や幻想の類いを払拭する論を張ることは大いに歓迎したい。

 

世界一の経済大国であるアメリカとて、貧困や失業、質の悪い雇用、医療・福祉レベルの低下、インフラの老朽化といった社会的課題と縁を切ることができず、世界トップの経済大国に暮らす国民という地位にふさわしい生活を送れるものは、3億人を超える国民のうちごく僅かだ。

 

上記インタビューの中でケルトン氏は、財政支出の限界は赤字額ではなく、支出されたカネを付加価値のあるモノに変えるために欠かせない労働力・資材・資源などといった生産力や供給力にあると主張する。

 

これは、天然資源や一次資源を国民の生活向上に資する物品やサービスに変換する「生産力・供給力・技術力」こそが最重要の国富であると主張する筆者の考えとも一致する。

 

地下に溜まったガスや大海を泳ぐマグロは、それらを家庭のコンロの火力に変え、美味しい寿司ネタに加工する技術があってこそ、初めて“資源”と言えるのだ。

 

地球上に存在する気体や魚類を、生活を潤す資源に変換する技術を維持し、磨き続けるためには、人々の意欲を刺激し、そうした行為に没頭させる動機や報酬が必要になる。

それこそがカネの果たすべき役割なのだ。

 

カネなんてものは国民や政府の意志により制限なく造り出せるツールに過ぎない。

財政赤字とかPBを心配するあまり、国民に重税を課してカネを取り上げ、実体経済に放出するカネの量を絞ってしまうと、企業や国民の収入が減り、生産力や技術力は減退を余儀なくされ、国富は腐敗へと進む。

 

国富たる生産力や技術力を失った国家の国民は、いったい何を支えに生活を維持できるというのか…

 

筆者が国債増発や政府紙幣発行を財源とする積極財政論を口うるさく訴え続けてきた真意はここにある。

 

国民の生活を最終的に支え得るのは国民自身しかいない。

国民自身が、貧困や失業により、就業を通じてしか得られない技術や労働に対する前向きな意欲を失ってしまえば、国家はおろか、社会生活を支える基盤は瞬く間に崩壊の危機を迎えるだろう。

 

“カネが惜しい、無駄遣いは悪、国債は将来世代へのツケ送り、給付金は怠け者を増やすだけ”云々と愚痴を吐き続け、財政赤字を攻撃し、財出の行く先を選別したがる大バカ者たちは、真の国富、最凶の国難とは何たるかをまったく理解できないブードゥー教徒でしかあるまい。

不毛な二者択一論は幼児性の証し

甲状腺がん診断...15年間で『韓国17倍』 福島医大・国際シンポ』(福島民友ニュース)

http://www.minyu-net.com/news/news/FM20190116-342446.php

「建国大(韓国)の耳鼻咽喉・頭頸部(とうけいぶ)外科のリー・ヨンシク教授は15日、福島医大福島市で開いた国際シンポジウムで講演し、韓国で広範囲に甲状腺超音波検査が行われるようになった結果、「甲状腺がん」と診断された人が15年間で約17倍に急増したことを報告した。リー教授は、甲状腺がんと診断される人の急増は「超音波検査の乱用が引き起こした過剰診断の見本だ」と見解を示し「治療の必要がない微小ながんまで見つけて手術することで、恐怖をあおる結果を招いた」と述べた。(略)

 リー教授は韓国の経験を踏まえ「原発事故を経験した福島の人々が甲状腺がんを不安に思うのは当然だが、超音波検査で見つかる微小ながんのリスクが小さい以上、検査が生み出すがんへの漠然とした恐怖の方がより大きな問題になり得る」と話した。

 リー教授は甲状腺がんは触診で分かる大きさになってからでも生存率が97%超だったとのデータも示し「福島でも甲状腺の超音波検査はやめ、定期的な触診が甲状腺がん予防に十分役に立つ」と述べた。(略)」

 

甲状腺がん検査「発見率の上昇なし」 福島医大が研究結果報告』(福島民友ニュース)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190223-00010014-minyu-l07

東京電力福島第1原発事故後、県が県内全ての子どもを対象に実施している甲状腺検査を巡り、福島医大は22日、国連の報告書を基に甲状腺吸収線量と甲状腺がんまたはがん疑いの発見率の関連性を調べた結果、線量の上昇に伴う発見率の上昇は確認されなかったとの研究結果を報告した。(略)」

 

東日本大震災津波被害を被った東京電力福島第1原発事故に端を発して、反原発ゴロや過激な左翼思想に駆られたクズどもによる「福島=放射能汚染」という許しがたいレッテル貼りや暴言が横行し、彼らのあまりにも無責任かつ人非人的な態度に、筆者は大いなる怒りを覚えていた。

 

だが、案の定、上記報道のとおり、福島県内の放射能による健康被害など存在せず、“福島の子供たちは甲状腺がんの高リスクに晒されている~”という脅し文句が悪質な大嘘であることがバレてしまった。

 

「治療の必要がない微小ながんまで見つけて手術することで、恐怖をあおる結果を招いた」という趣旨の指摘は、反原発派による大嘘の流布を諫める論者から、これまでもたびたびなされてきたが、今回、リー教授という利害関係のない第三者から同様のコメントが得られたことは大きい。

 

原発ゴロの薄汚い連中は、自分たちの思想をゴリ押しするために、福島に暮らす方々を貶め続けてきた罪の重さを思い知るべきだ。

 

ゴロツキどもが「福島の子供=甲状腺がんに罹患」というデマをばら撒くたびに、我が子の健康は大丈夫だろうかと不安に駆られ、ストレスを抱え込んだ親御さんも多数いらっしゃったに違いない。

ただでさえ、避難生活の負担を抱え、福島県産の農水産物に対するいわれなき白眼視に耐えながら、お子さんの健康不安を煽るような暴言に晒され続けた方々の心情たるやいかばかりかと同情を禁じ得ない。

 

罪深いゴロツキどもは、反省の色を形で示すためにも、“「私は原発憎しで大嘘を吐いた馬鹿です」と背中に書いた法被でも着て、浪江町双葉町に行き、向こう5年間、毎日草むしりでもやってこい‼”と言っておく。

 

さて、世間に大嘘を撒き散らしているのは、反原発ゴロだけではない。

ネットを見ても、「経済成長は不要」、「公共事業は要らない、減税や給付金を‼」と叫んで、緊縮主義をアシストする経済無知の大バカ者が散見される。

 

経済成長不要論や公共事業嫌悪論を唱える者の特徴は次のとおり。

①自分の懐には成長の果実が一切入ってこないと思い込んでいる

②成長に伴い仕事が忙しくなりストレスが増えることに怯えている

③成長の果実を享受できる層と自分との経済的差異が大きくなることに嫉妬している

④そもそも、“経済成長”の意味をまったく理解していない

⑤公共事業はDQNばかりの土方やゼネコンにカネをばらまくだけで、自分には恩恵がないと思い込んでいる

⑥公共事業より、確実に自分の懐に入ってくる減税や給付金を欲しがる

 

経済成長不要論を唱える連中も一枚岩ではない。

A 緊縮思想を崇拝するあまり財政拡大を伴う経済成長を忌み嫌う者

B 積極財政派の論者への嫉妬心から意図的に経済成長を貶めようとする者

の2種類に分別される。

 

特にAの緊縮派は、20年不況を経てもなお国民の大半を占める一大勢力で、「国債=国家・国民の借金=次世代への負の遺産」という妄想の呪縛にあえて囚われたままでいようとする、いわば『幸福恐怖症患者(幸せを敬遠し、不幸に安らぎを感じる病気)』とでも呼ぶべきか。

 

彼らは、“国債は借金、借金は悪、借金が増えるくらいなら死んだ方がマシ”と頑なに信じ込んでおり、理を以って諭すのは不可能に近い。

狂信者に何を言っても徒労に終わるだけ。

 

彼らの意向など無視して積極財政を行い、彼らの不平不満を踏み越えつつ、経済成長と所得倍増といった体感可能な“実績”で黙らせるしかない。

 

一方のBに分別される嫉妬集団には、常識とか理性を以って接する必要はない。

ただひたすらバカにしておけばよかろう。

 

この手の連中は、“経済成長しても自分には何の益もない”と拗ねるのがお約束だが、経済成長の意味を何も分かっていない。

 

経済成長とはGDPの成長を意味し、その目的は国民所得の増大と、それが惹き起こす産業力や技術力の強靭化に他ならない。

 

GDPの分配面から分解すると、「雇用者報酬」という国民の取り分が50%近くを占めているが、経済成長の重要性を唱える者が目指すのは、この“国民の取り分”を増やすことである。

 

嫉妬集団の連中は浅はかな勘違いをしているようだが、経済成長の果実として国民所得が増えるのではなく、「適切な経済政策が国民所得の増大をもたらし、その結果として嫌でも経済が成長してしまう」というのが正しい。

 

経済成長は不要というのは、「オレの給料が減っても構わない」というのと同じこと。

マクロ経済を眺める際には、自分たちの給料が増えた結果、経済も当然成長するものだと見方を変える必要がある。

 

それが解かれば、「経済成長か、身の丈に合った生活か」という二者択一論に固執することが、いかにバカバカしいことかすぐに理解できるはずだ。

 

他国がガンガン成長を続ける環境下で、我が国だけがのんびりと身の丈生活など享受できるはずがなかろう。

途上国の国民が経済的に裕福になり、衣食住のランクを上げ始めると、世界中の原材料や食糧、エネルギー価格が上昇するから、“もう成長は要らん。オレはのんびり暮らすから”と安穏とできると思っているなら大間違いだ。

 

自分たちの所得を他国に負けぬくらいのスピードで上げていかないと、資源や食糧価格の高騰という悪性のコストプッシュインフレに苦しめられるばかりか、買い負けにより端から物品が手に入らないという惨事に直面することになろう。

 

長期間にわたる不況の放置により、国内のモノづくりが壊滅状態の危機に瀕している状況下で、資源や食糧の不足に見舞われ、コストプッシュインフレの襲来を喰らうことの恐ろしさを噛みしめてみるがよい。

 

また、「財政支出公共工事増」と話を矮小化し、公共事業悪玉論を吐き散らすバカにも呆れ果てる。

 

まず、財政支出の拡大を唱える積極財政派の中に、公共工事だけを増やせと言う者はいない。

公共工事は無論のこと、社会保障費(医療や福祉等を含む)、科学技術振興費、農業予算、防衛費、産業振興予算、教育費などあらゆる予算を拡大し、国内産業の基盤強化と労働者の所得を増やせと訴えている。

 

積極財政派が公共工事をクローズアップしがちなのは、我が国の国民生活や産業基盤を支える社会インフラが、度重なる緊縮政策により新規整備や更新投資が放置され、向こう20年間で崩壊の危機に瀕している事実を重く見ているからに他ならない。

【参照先】http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/maintenance/02research/02_01.html

 

仮に国民が豊かになったとして、港湾の岸壁がボロボロ、橋やトンネルも崩落といった惨状で、せっかくAmazonでポチったモノが満足に届かないようでは元も子もない。

(そもそも通信回線がズタボロで、ネットがつながらなくなるかも…)

 

公共工事か、減税・給付金か」という選択論に固執する輩は、経済をマクロ的に俯瞰できぬ蚤や虱の類いでしかない。

インフラ投資と減税や給付金とを天秤にかける発想自体に、周回遅れな幼児性を感じる。

 

インフラは国民の社会生活と産業基盤を下支えする揺り籠であり、減税や給付金による実質所得の増加は、GDPの根幹を占める個人消費の強力な牽引力となり経済発展に欠かせない。

 

くだらぬ二者択一論はいますぐ捨てるべきだ。

公共工事も善し、減税・給付金も善し、国民の生活を支え、国民を豊かにする政策であれば、どちらか一方を排除すべきではない。

無理を推しても両方やればよいだけだ。

MMTに期待すること

MMT理論(現代貨幣論)を構築する基盤の一つに「内生的貨幣供給論」なるものがある。

 

これは、“需要に応じて貨幣が供給されるという考え方を軸に、貨幣経済の姿を描く理論”と説明され、中央銀行ベースマネーの量を制御することでマネーストックの量を制御可能だという、いわゆる「外生的貨幣供給論」の対立概念だと位置づけられている。

 

これを信奉する論者によると、「内生的貨幣供給論」とは、銀行が民間に貸出を行った結果として預金(マネーストック)が創造される、つまり、銀行の貸出行為によって預金が生まれるという意味だそうだ。

 

一方、「外生的貨幣供給論」とは、中央銀行が売りオペ・買いオペや、準備預金量の調整を行うことにより銀行の貸出量をコントロールできる、つまり、中央銀行の意志でマネーストック量を制御できるということらしい。

 

なぜ、両者が対立概念にあるのかというと、“貨幣供給が内生的というのは、「銀行と民間という経済の『内部』の貸借で『貨幣(銀行貨幣)が生まれる』」、というものです。反対に貨幣供給が外生的というのは、「銀行と民間という経済の『外部』である中央銀行が『貨幣を生み』、それを銀行と民間の内部に供給する」、というものになります”との説明がある。

【参照先】https://ameblo.jp/shingekinosyomin/entry-12442893865.html

 

つまり、MMT支持者によると、貨幣数量説や金融緩和万能説を唱えるリフレ派は外生的貨幣供給論に位置づけられ、内生的貨幣供給論を軸とするMMTとは真反対の立場にあるそうだ。

【参照先】http://shavetail2.hateblo.jp/entry/2019/02/17/100049

 

国債と準備金を両替しただけで空砲に終わった黒田バズーカ、実体なき経済成長が単なる統計偽装だったことがバレたアベノミクス…、これらを熱狂的に支持してきたリフレ派は、壮大な社会実験を経ての大失敗を認めようとせず、いまだに“アベノミクスで雇用激増‼”と強がってみせるが、負け試合という結果は変わらない。

 

醜態を晒すリフレ派と同属に見られたくないというMMT支持者のお気持ちはよく解かるが、経済の内外を区分するのに、銀行と民間が内部、中央銀行は外部という線引きは、いささか勇み足ではないか?

 

筆者は、リフレ派と貨幣負債論の貨幣観は対極にあるどころか、かなり近似していると思っている。

 

リフレ派が、行ったきりのカネ(財政政策)を嫌い、戻ってくるはずのカネ(金融緩和)に固執するのは、「貨幣=負債→むやみに放出できない存在」だと思っているからに違いない。

 

これに対して、“リフレ派は大規模な金融緩和政策を主張し、日銀による数百兆円規模の国債買取で金融市場に莫大な資金を放出したではないか?”との反論もあろう。

 

しかし、金市場に供給したのは“直接的に所得として使えるカネ”ではなく、“返済義務を伴う借りるためのカネ”だから、そんなものをいくら増やしても意味がなく、資金を放出したことにはならない。

 

リフレ派の連中の経済観は新自由主義との親和性が高く、国民所得を直接的に増やす政策(財政政策)への忌避感が強い。(財政政策を否定しないという彼らの言い訳は、まったく信用できない)

 

彼らの経済政策の主軸は、あくまで金融政策、つまり、行ったきりのワンウェイのカネ(所得や売上に直結するカネ)ではなく、貸借や債権債務で縛られリターンを前提とするカネ(融資や貸出金としてのカネ)を土台としている。

 

要は、「政府は余計なカネを使いたくない。期待インフレ率を引き上げるから、いま投資しないと先々損するよ。投融資に必要なカネは用意するけど、後は民間同士で稼いで利息を付けて返してね。間違っても政府に甘えようなんて考えないように」というわけだ。

 

ゆえに、リフレ派は財政政策を声高に訴えない(※時々、財政政策を口にするのは、金融政策がどん詰まりになって話の接ぎ穂に困ったときだけ…)し、政策の成果を国民所得の向上ではなく、税収増に結び付けて語りたがる。

 

さて、筆者が彼らの内生・外生の区分方法に違和感を覚えるのは次の点である。

①内外の線引き以前に、肝心の「政府」はどこに行ったのか?

②経済活動の内部に位置づける「コア・プレーヤー」は銀行と民間だけでよいのか?

中央銀行市中銀行との関係性を考慮すると、両者間に境界線を引く意味がまったく不明。単に、敗戦が確定したリフレ派との対立構造を演出したいがために恣意的な線引きをしただけではないか?

④貨幣が賃借から生まれるという貨幣供給論ばかりがクローズアップされるが、金融の役割は、本来、経済活動の資金供給をアシストする円滑剤でしかない。

⑤彼らの云う「内生」も「外生」も、貸借により貨幣を発生させるという金融論の域を出ておらず、こんな線引きに意味はあるのか?

 

MMT支持者の方々から、自分たちは貨幣供給論を論じているだけと反論がありそうだが、貨幣は負債や債務だけから生まれるわけではない。

 

現に、政府発行の硬貨が流通しているとおり、通貨発行権という大権を有する政府の意志で生み出すこともできるのだから、貨幣供給論を論じるに当たり、肝心かなめの「政府」を外すのはおかしい。

 

「貨幣的主権を持つ政府は貨幣の独占的な供給者であり、物理的な形であれ非物理的な形であれ任意の貨幣単位で貨幣の発行を行うことができる。そのため政府は将来の支払いに対して非制限的な支払い能力を有しており、さらに非制限的に他部門に資金を提供する能力を持っている。そのため、政府の債務超過による破綻は起こりえない。換言すれば、政府は常に支払うことが可能なのである(Wikipedia)」というMMTの根幹的主張を自ら汚すことにならないのか?

 

政府の貨幣製造・供給能力をこそこそ隠そうとせず、その活用をもっと堂々と訴えればよい。

 

国債発行という政府負債の拡大により、貨幣を実体経済に供給するのが、積極財政論の本筋であるのは間違いない。

 

だが、ほとんどの国民は、「国債=借金=将来世代へのツケ回し」と信じ込む緊縮主義者であり、国債増加は税負担増加を招くと怯え、“私たちの税金が~”と叫びながら、国債を一円でも減らそうと鬼の形相で財政支出を口汚く非難する。

 

ここで、「貨幣は負債です」論や「国債増加宿命論」で正面突破を図ろうとするなら敢えて止めないが、借金恐怖症に駆られた国民から悪質タックルを喰らって病院送りにされるだけだ。

 

“私たちの税金が~”という雑音が届かない財源を確保するためには、国債発行と並行し、政府による貨幣製造、つまり、政府紙幣の発行をもっと一般化させる必要がある。

 

現在の政府紙幣(硬貨)発行量は年間2,000億円ほどと、あまりにも少なすぎる。

まずは、これを20兆円くらいに拡大させ、財政政策の自由度を高めていくべきだ。

 

筆者は機能的財政論の立場から、MMTの政府の支払い能力無限論(=貨幣発行無限論)を支持している。

 

だが、MMTを支持する方々が、同じ文脈から、なぜか給付金拡大やベーシックインカムを敬遠し、あまりにも公共工事などのインフラ投資に偏った財政支出を主張する様を残念に思っている。

 

“政府は将来の支払いに対して非制限的な支払い能力を有している”のなら、公共工事か、給付金かといった択一論にこだわる理由などなかろう。

国民ニーズの強い政策なら、双方を天秤にかけて一方を排除する必要はない。

 

MMTを支持する方々には、政府の絶大なる貨幣供給能力を十分に活かした議論を期待したい。

政府は、とにかくカネを使え

富士通、希望退職2850人=461億円の費用計上-今期』(時事通信社)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190219-00000088-jij-bus_all

富士通は19日、ITサービス強化と間接部門の合理化を目指したリストラ策の一環として実施した希望退職者の募集に、2850人が応募したと発表した。退職日は3月31日で、割増退職金などの費用として2019年3月期に461億円を計上する。(略)」

 

富士通の希望退職募集のニュースは、もはや決算期の風物詩と化した感もあるが、このところ、NECエーザイ協和発酵、キリン、アルペンコカ・コーラなど早期退職や希望退職を募るニュースが後を絶たない。

 

経営者の連中は、口を開けば「業界は人手不足で人材確保に一苦労だ」とボヤくが、いったい何処の話をしているのか? (要は、安月給&キツいノルマに文句も言えない奴隷が足りないと言いたいだけなんだが…)

 

名だたる大企業が、屋台骨を長年支え続けたエース級社員たちを冷酷な追い出し部屋送りにする様を見て、「仕事もしない穀潰しの中高年はゴミ箱行き」、「年功序列を排し、真の実力主義の導入を‼」と気勢を上げる若者世代も多いが、10~20年後に自分の首を切り落とす断頭台の切れ味を称賛する頭の悪いバカだろう。

屠殺場行きのトラックを待つ列の後方で屠殺人に喝采を浴びせる豚と同じだ。

 

豊富な業務ノウハウや人脈を有するベテラン社員を標的に苛烈なリストラと首切りの嵐が吹きすさぶのは、40~50歳代の高所得層(経営視点から視ると高コスト層)を雇うだけの売上や収益を稼げないからで、とどのつまりは、国内のビジネス需要が極度に冷え込んだまま一向に回復していないことに尽きる。

 

企業の経営資源は「ヒト・モノ・カネ・情報」などと言われるが、ベテラン社員の大量喪失により、経営の根幹たる“ヒトと情報”が一挙に失われ、残ったモノやカネの劣化に直結する。

それを証拠に、大規模なリストラを断行した企業ほど、その後何度も追加リストラを余儀なくされ、企業価値の下落に歯止めがかからない。

リストラという「麻薬」は常習性が極めて高く、自傷行為を伴い経営を蝕み続けるものだ。

 

こうした企業の体たらくを見るにつけ、国内需要の回復が急務だと思い知らされる。

なぜなら、リストラや人材の使い捨ては、我が国最大の強みである生産力・供給力・サービス力という“国富”を劣化させ、豊かで便利な国民生活を一気に破壊し、貧困と暴力が支配する後進国へと転落させる危険を孕んでいるからだ。

 

にもかかわらず、内需回復を求める声は相変わらず小さすぎるし、それに欠かせぬ積極財政主義には“ムダ遣い”だの“不正の温床”だのとレベルの低いレッテが貼られ、国民から忌み嫌われている。

 

筆者は、平成の次の元号が終わる頃に、我が国のGDPはいまの半分以下にまで落ち込み、G7どころかG20から外され、失業率は9~10%にも達しているのではないかと、まじめに心配している。

 

世界をリードする生産力や技術力、サービス力を何とか維持できている今のうちに、そうした国富に十分な養分を与えられるよう、積極的な財政政策に舵を切らないと、生産力そのものが壊死してしまい、財政政策そのものが効力や意味を失う世界、つまり、需要が供給の高度化につながらず、単にインフレを加速させるだけの暗黒の時代を迎えざるを得なくなるだろう。

 

財政政策を推す論者は「政府はカネを借りて、使え」と、積極的な国債発行による財源捻出を主張する。

これには筆者も大いに賛同する。

 

巷には、「1000兆円を超える国債は国の借金。次世代に負債のツケ払いをさせるな」だの、「収入が50万円しかない家が、毎月50万円も借金しているようなもの。増税に耐えてでも無駄遣いを減らせ」だのと、国債の何たるかをまったく理解していない大バカ者の妄言が溢れかえっているが、そんな戯言をまともに相手する必要はない。

 

本気で豊かになりたいのなら、政府にカネを存分に使わせ、懸命なる労働と旺盛な消費や投資を以って、それを十分に吸収してやればよい。

その過程で、国民の消費に対する欲求はより高度化し、企業はそれに応えるべく生産やサービス技術を磨き、国全体の国富がより堅牢かつ強靭化するという善循環につながるだろう。

 

くだらない清貧の思想とか、カネの使い道の清濁に関する異様な拘りは、そうした循環と発展を阻害する薄汚い汚泥の類いでしかない。

 

筆者は、「政府はカネを借りて、使え」に加え、「政府はカネを造って、もっと使え」と主張したい。

 

前回のエントリーでも説明したが、国家が、経済活動の源泉となる「貨幣」を実体経済に流通させる方法には二つのやり方がある。

一つは、政府が民間からカネを借りる「国債発行」であり、もう一つは、政府が直接的に貨幣、つまり、「政府貨幣(紙幣でも可)」を製造する方法だ。

 

国債発行は長年の実績やノウハウの蓄積があり、貯蓄超過になりがちな民間経済主体に対する利払いを通じた資産運用の手助け、国債売買のオペレーションによる貨幣流通量の調節、金融緩和や引き締めによる金利水準の調整などといった役割があり、これらは今後も十二分に活用すべきだ。

 

問題なのは、国民の「国債=国(国民)の借金⇒私たちの税負担が重くなる」という猛烈な国債アレルギーをいかに治癒するかという点だ。

 

国債は政府の借金であって国民にとっては資産”、“他国の例を見ても解かるように、国債発行残は永久に増え続けるもの”という説明には合理性があり、聖域なきバラマキを善しとする筆者みたいな人間はたちどころに首肯できるが、借金コワい病を患う多くの国民を納得させるのは極めて難しい。

 

まして、「皆さんが欲しがる“貨幣”って、ほんとは負債なんですよ」なんて言った日には、「なにぃ~! カネが負債だって? じゃぁ、最後は国の借金を負債で返すの? カネが負債ってことは外国から借りないといけないってこと? ナニいってんのかサッパリ解からんわ??」とバカにされるだけだ。

 

「世の中には、預金みたいに返すことを許されない借金もある」とか、「国債とは、政府が国民からモノやサービスを借りた証」といった言い訳は通用しない。

 

預金は金融機関にとって拒否できない借金に等しいが、それを以って国債発行の許容に結び付けるのは難しい。

勉強不測の国民から、「預金(借金)増加に困っているなら、銀行はもっと企業に融資すればよい。何も国債を買う必要はないだろ?」、「銀行が国債を買うのは、政府を甘やかすだけだ」とアホな反論を焚きつけるだけに終わる。

 

また、政府は国債発行で捻出したカネを財源に様々な事業を行うが、個々の事業の対価は都度清算済みであり、モノやサービスを借りているとは言えない。

政府が借りているのはカネであって、モノやサービスではない。

 

借金恐怖症に駆られた国民に、いい加減なことを言うと、「政府は国民が貸したモノやサービスを返せ。いますぐ、国債という借金を減らせ」と大騒ぎされるだけだ。

 

緊縮財政や増税止む無しとばかりに自殺行為を受け容れる国民に訴えるべきは、「政府はカネを借りて、使え」と「政府はカネを造って、もっと使え」の両方であり、どちらか一方だけでよいというものではない。

 

手段の清濁に固執せず「政府はカネをもっと使え」を実行させることこそが、物事の本質や根幹なのであり、“借りるor造る”の二者択一論争をすることではない。

 

借りるという行為以外でカネを発生させるのはご法度だなどと時代遅れも甚だしい戯言を言っている場合ではなかろう。

 

政府がカネを積極的に使えば、民間は必ずそれを追従し、民需隆盛につながる。

政府の役割は、消費や投資は生産力や供給力を強靭化させるために不可欠な行為であるということを民間経済主体に理解させ、実感させるために範を垂れ、先鞭をつけることに他ならない。

 

カネを使う(=民間のビジネスチャンス拡大、家計所得UP)ことが大切なのであって、“公共事業は仕事を生むから善”、“給付金は怠け者に対する施しだから悪”という幼稚な発想を捨て、公共事業も善、給付金も善、減税も公務員増員も善という原則を理解せねば話は前進しない。

 

財出拡大を訴えると、ハイパーインフレが怖いから無税国家は成り立たないとか、ベーシックインカムは働く意欲を喪失させるとかいうトンデモ論が沸き起こるが、こういうことを言う論者は、生産の概念を質や付加価値ではなく量でしか測れない「胃袋経済論」に囚われ、日本の工業力を前近代的視点でしか理解していない、呆れるほど周回遅れの経済観しか持ち合わせていない。

 

ハイパーインフレ対策として絶対に欠かせないのは、生産力の高度化(生産性向上)と人材育成、流通基盤の整備に尽きるが、国富喪失のリスクに直面する我が国のサプライサイドを修復するために、貨幣の資産性を活用した積極果敢な財政支出なしに、どうやってそれを成し得るというのか?

 

国債=次世代へのつけ回し論や財政破綻論、金融緩和万能論、増税不可避論、貨幣負債論、租税貨幣論などといった類いの愚論を布教するのにムダな時間を費やしている暇はない。。

 

「政府はカネを借りてでもよい、造ってでもよい。とにかく、もっと使え」と言うべきだ。