うずらのブログ

積極的な財政金融政策による豊かで成長力に満ちた社会を目指します

天災の人災化は不幸しか生まない

『私たち19遺族は本当のことを知りたいだけだ~大川小はなぜ51分間も校庭に留まらせたのか』(12/12 東洋経済オンライン)
http://toyokeizai.net/articles/-/200781

「2011年3月11日に発生した東日本大震災の大津波。当時校庭にいたとされる78人の児童のうち、70人の児童がここで亡くなり、4人の児童が今も行方不明のままだ。11人いた教職員も10人が命を落とした。(略)
児童23人の19遺族は、石巻市宮城県を相手に真相究明のための訴えを起こした。「金が欲しいのか」と心ない声にさらされることもあった。しかし、現場であの日何が起きていたのかが明らかになるまで自分たちは闘う、親たちの決意は固かった。
仙台地裁は昨年10月、教員らは津波の襲来を約7分前までに予見できたと認定し、学校側の過失を認めた。現在、仙台高裁で控訴審を争っている。(略)」

6年前に東北から関東地方太平洋岸を襲った東日本大震災は、1万8千人を超す死者・行方不明者を出す大惨事となり、多くの国民の心身に深い傷を残したが、何より残念なのは、悪夢のような大災害に遭い生死を分けた者同士による事後のいがみ合いが絶えないことだ。
いや、“いがみ合い”という表現は正確性に欠ける。
むしろ、不幸にして家族や親族の死に見舞われた者が、生き残った側を一方的に責め、罵倒する構図という方が正確だろう。

大川小で起きた悲劇を巡る裁判では、
「なぜ、51分もの間、子どもたちを校庭にとどめたのか。なぜ、すぐ目の前にある裏山への避難がなされなかったのか。なぜ、「山へ逃げっぺ」と不安げに訴えた子どもの声は教師たちに届かなかったのか(※上記コラムより抜粋)」
と、災害現場における教師の対応が強い非難に晒され、仙台地裁では教師側の過失を認める結果となった。

原告たちは、51分間も何をやっていたのかと教師の対応を責めるが、逆に言うと、地震発生後に何も起きなかった時間が50分間もあったがゆえに、津波の襲来を想像できなかったと言えないか。
北海道南西沖地震の際は、地震発生後10分ほどで津波が到達したと言われ、一般的に津波襲来は30分以内が目安と説明されることも多いから、50分という長すぎる時間が、逆に津波は来ないかもという判断をもたらした可能性も否定できない。

悲劇の現場となった大川小は、石巻市釜谷地区の北上川河口から約4㌔の川沿いに位置し、河口から十分に離れていたこともあってか、石巻市ハザードマップでも浸水地域から外れ、こともあろうか避難場所に指定されていた。

災害が起きた後であれこれ文句をつけるのはたやすいことだが、4㌔といえば結構な距離で、東京湾でいえば永代橋から浅草やスカイツリーあたりの距離感に該当する。
東京湾岸で地震が起きたとして、浅草の仲見世見物をしている観光客のうち、津波の襲来に怯える者がいったい何人いるだろうか?

大川小とて同じ事で、いくら近くを北上川が流れているとはいえ、津波が4㌔以上も川を遡上して襲ってくるとは想像できなかっただろう。
津波といえば海から来るものであり、河川を何㌔も遡り襲ってくるなんて、誰が想像し得ただろうか。

事実、被害のあった石巻市釜谷地区の住民の多くは、「ここまで来るとは誰も思わなかった」。と口を揃えて証言しており、同市河北総合支所によると、防災無線の避難呼びかけは一度きりしかなかったそうだ。

つまり、一般住民の多くが、まさかここまで津波が来ることはないと判断していたのであって、大川小の教師過失の有無を問うなら、こうした周辺地域の常識を基準に判断すべきだろう。

また、中央公論2011年8月号「なぜ大川小学校だけが大惨事となったのか」の記事でも、大川小の児童の父親から、“大川小のケースは「あくまでも天災」だ”という証言とともに、「釜谷は300年以上、津波が来ていなかったと言われた地区で、50年前のチリ地震津波でも被害はなかった。津波への警戒心は薄く、実際に地元住民も多数亡くなっているんです。あの裏山は急斜面で、低学年の子では登れないと思います。私も息子も、たまたま助かっただけです。先生も死なせたくはなかったはずです。昔からの顔見知りばかりの集落の保護者の間に、悲しい温度差ができてしまったのは本当に残念です」とのコメントがあり、大川小の悲劇を人災化したがる風潮に一石を投じている。

日常生活から一瞬にして猛威を振るう大天災の眼前に引き出された者に冷静な行動を期待するのは、あまりにも酷だろう。

学校は安全な場所、子供の命を守る場所というきれいごとを押し付けるのは勝手だが、先生とて火災訓練ぐらいはしているだろうが、防災の専門家ではないのだから、想像を絶する大津波を想定した避難訓練などしていなかったはずだ。

原告側の遺族たちは、「本当のことが知りたい。この悲劇を繰り返さないために」と強調するが、いくら学校側を責めても、“突然の大地震に動揺し我を失い正常な行動をとれなかった”という回答しか返ってこないだろう。

他の小学校ではきちんと避難したところも多いのに、なぜ、大川小だけが逃げ遅れたのかと非難する声もあるが、津波による災害の大きさは地形や建造物によりまちまちであり、想像を超えた不幸がたまたま重なった結果としか言えないし、他の地域においても一部の地区に被害が集中した例がいくらでもある。

大川小の悲劇を経て生存した教師たちは、かわいい生徒たちを亡くした悲しみと遺族に対する自責の念に苛まれ、いまも重い十字架を背負い続け、呼吸すらまともにできぬ毎日を送っていることだろう。

本来なら、不幸にして愛する我が子を亡くした遺族とともに、子供たちの命を奪った震災を憎み、互いに心の傷を癒し合うべき両者が法廷で対峙せねばならないのは、天国にいる子供たちにとって最大の不幸なのではないか。

突然襲ってきた天災や大災害を前に、一般人の正常能力を超える対応や判断を期待するのは過剰な要求でしかない。
不幸な結果を未来の教訓として活かすためにも、後講釈で高いハードルを課し、互いの過失を罵り合うのではなく、起こった事実を淡々と積み上げ、それに対する具体的な対応策を淡々と練り上げることこそが大切なのだ。

生産性が上がらないのは、緊縮癖が抜けないバカのせい

『安倍政権の「生産性革命」をダメ政策の寄せ集めにしそうな3大課題』(DIAMOND online岸博幸/慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授)
http://diamond.jp/articles/-/150616

「安倍政権は“生産性革命”の具体策の検討を急いでいますが、新聞などで報道されるその内容を見る限り、残念ながら名前が示す方向性こそ正しいものの、中身はまったく伴っておらず、かなり空疎なものになりつつあるように見受けられます。(略)
 その最大の理由は、日本経済の生産性の向上のためには、生産性が低いままとなっているセクターにおいて岩盤規制の改革を進めることが一番必要であるにもかかわらず、それがほとんど進みそうにないことです。(略)」

岸氏が書きそうな中身なんてコラムの内容を見ずとも容易に判るが、案の定、
“非効率な中小企業を淘汰しろ。余剰人材は人材不足が深刻な地方に振り分ければよい”、
“高い賃上げを行うこと自体は労働生産性の向上とは無関係” 、
“賃上げとか設備投資といった条件を付けず、法人税自体の引き下げを行うべき”、
“物流ネットワークの整備を言い訳にした公共インフラ投資は無駄”、
といった趣旨の薄っぺらな改革万能論をぶちまけている。
(※ただし、コラム中の「経済界は、総理の一声で3000億円も出すくらいなら、その巨額の資金を賃上げや投資に使うべき」とのくだりには同意する)

岸氏のような改革バカは「生産性」という言葉を好んで使うが、改革好きの人種ほど生産性の定義を狭めたがるものだ。

彼らの云う生産性には“付加価値”という概念の一部が抜け落ち、「コストカット&生産量UP=生産性向上」というイメージでしか語れないから、AI化やロボット化、外国人や女性といった低賃金労働者の活用、雇用流動化による労働コスト縮減などを生産性革命の主軸に据えたがる。

生産性(付加価値生産性)を計算する際に分子となる“付加価値”とは、「生産額(売上高)から原材料費や外注加工費、機械の修繕費、動力費など外部から購入した費用を除いたもの」(日本生産性本部HPより)と定義され、人件費や賃借料・金融費用・租税公課・配当金・内部留保減価償却などの費用項目で構成される。

だが、改革バカどもは、本来、付加価値の主要項目であるはずの“人件費”を意図的に排除し、一方で“配当金と内部留保”を極大化することばかりに熱を上げ、コストカット優先主義をゴリ押ししてきた。

企業の付加価値に“人件費”が含まれているのは、企業という経済主体の存在意義が、一義的には「人件費(=国民の所得)を創出するための器」であることを示しているからに他ならない。

彼らの口から出てくる「生産性」という言葉に冷酷な空気しか感じられないのは、生産性向上と国民所得の増加とを、相容れない対立概念として位置づけ、人件費や労働分配率の向上を生産性低下の病原菌だと蔑む守銭奴特有の妄想に起因するものだろう

岸氏は、非効率な中小企業淘汰論を主張するが、国税庁のデータによると、H27年度時点の欠損法人(=赤字企業)の割合は64.3%と、ほぼ3社のうち2社が赤字に陥っている。
しかも、中小企業白書によると、国内企業の99%かつ従業員数の70%あまりが中小企業であり、岸氏の暴論どおりゾンビ企業を淘汰してしまうと、6,600万人ともされる就業者のうち3,000万人近い人材が路頭に迷うことになる。

これだけ大量の失業者を、残った黒字企業が吸収できるわけがないことくらい容易に想像がつくだろうが、脳幹を妄想に支配された改革バカには理解できぬらしい。

また、賃上げや設備よりも法人税引き下げを優先すべきとの彼の主張から、人件費(賃金)をまったく考慮せずに生産性や付加価値を騙っているのがよく解る。

ここ20年余りというもの、企業サイドは、法人税引き下げや低金利・雇用流動化といった政策の恩恵を受け続けてきたにもかかわらず、労働者への分配(賃上げ)を蔑ろにし、サラリーマンの平均所得は減り続けてきた。

最近の人手不足の深刻化(※筆者は、賃金水準引き上げに対する企業側の努力不足が惹き起こした“エア人手不足”でしかないと考えているが…)は、そうした経営層の「反国民的行為」に対する“警告”と理解すべきであり、労働者への分配と雇用条件の改善努力を怠ってきた経営層に法人税減税をプレゼントするなんて絶対にありえない愚策だろう。

最後に、岸氏の公共事業悪玉論の幼稚さを指摘しておく。

彼は、「生産性向上のために公共事業を増額するならば、どのセクターの生産性を高めるのか、そのために本当に必要なインフラの範囲はどこまでか、といった戦略的な分析が不可欠です」と尤もらしいことを述べているが、公共事業だけでなく、あらゆる分野の科学技術や産業技術において、どれだけ資金を集中投下すれば、どの分野の生産性がどの程度向上するかなんて、誰も正確に測ることなどできるはずがない。

彼みたいな守銭奴は、「ワイズスペンディングのためには投資効果の戦略的分析が必要だ」云々と文句ばかりつけて、予算執行の邪魔をしたいだけなのだから、そんな戯言をまともに相手にする必要はない。

公共投資や予算執行の効果なんて正確に測れるはずがないのだから、できるだけ広範囲に、より多くの量をバラ撒くしかないし、効果測定ができないからとケチケチして財布の紐を〆るよりは、よっぽど効果的なのだ。

政府が広範な分野に多額の財源をバラ撒けば、それを拾おうとして、民間企業や大学、研究機関などがこぞって競争し、そこから生まれた研究開発が技術開発を高度化させ、商行為が活性化する。
それこそがGDPを成長させ、企業収益や労働所得を創出し、付加価値生産性の向上に直結するのだ。

人件費を削り公共投資をケチるだけの改革バカに、生産性の真の意味を理解させるのは、野良犬に言葉を教えるよりも難しい。

自称改革派官僚の浅知恵

国交省、若手34人がタブーなき直言 政策立案「スピード感遅い」』(10/26 日経新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22741160W7A021C1EE8000/

国土交通省は26日、「政策ベンチャー2030」プロジェクトの発足式を開いた。2030年に幹部となる若手官僚34人を選び、人口減少で先行きが不透明な中で公共投資都市政策などについて大胆な視点で課題を話しあう。(略)
 「日本は世界の動きから10~40年遅れている」。観光庁で働く入省13年目の福島教郷・課長補佐(35)はこう言い放った。
 過去の職務経験を踏まえ、「空港に民間経営のノウハウをいかすコンセッションはイギリスが日本の29年前に始めた。格安航空会社(LCC)の本格参入も米国は41年前」と指摘。そのうえで「後追い型から先取り型の組織にするには、前例のない仕事やリスクに国交省の資源を投入できるかがポイント」と述べた。
 「今やっていることで捨てることもある」との意見も出た。国交省がまとめた18年度予算の公共事業の概算要求は、前の年度に比べ16%増の6兆238億円。人口減で使わない道路や家屋が増えているにもかかわらず、予算は従来通りに膨張するいっぽうだ。(略)」

若手社員たるもの、一般企業だけでなく官僚の世界であっても、「うちの組織は遅れている」、「大胆な改革が必要だ」と言いたがるものだ。
しかし、“では君の改革案を言ってみて”と訊くと、役立ちそうな増収増益策は皆無で、「あそこの経費を削れ」、「あの工程は無駄だ」と既存システムに文句をつけるくらいしか能がない。

今回の国交省若手官僚(35歳のオジサン官僚を若手呼ばわりするのもどうかと思うが…)による政策提言なるものは、今年5月に経済産業省の(自称)若手官僚が発表した『不安な個人、立ちすくむ国家』なる幼稚で粗悪な政策提言ポエムの猿真似に過ぎない。

しかも、公的社会資本整備を推進し、国土の維持発展を主導すべき立場の官僚が、端から公共投資予算削減やインフラ放棄を口にするようでは、あまりにも情けない。
国土開発にやる気がないのなら、公務員の地位に安住せず、早々に民間コンサルにでも転職して、「公共事業は無駄の象徴。要らぬ予算をどんどん削れ」と気勢を上げていればよかろう。

記事にある観光庁の課長補佐は、空港民営化やLCCへの門戸開放が遅れたのを問題視したいようだが、他に先駆けて民営化した関空や伊丹、成田のサービス・利便性が目に見えて向上したとの評価も聞かぬし、中部(セントレア)みたいに端から民間主導でスタートしたのに、利用客や貨物取り扱いがジリ貧に陥っている例もある。

海外の例を見ても、豪州のゴールドコースト空港みたいに乗降客数を伸ばしているところもあれば、英国のバーミンガム空港のように下降傾向の空港もあり、利用者数の推移を民営化の効果だと決めつける根拠は乏しい。

LCCも国際線の利用は順調に伸びているが、国内線は2015年をピークに翌年は12万人も利用客を減らしており、国民の強い支持を得るには至っていないし、近年の機長不足も相まって今後の安定運航に強い不安が残る。
【参照先】http://www.mlit.go.jp/common/001198780.pdf

つまり、空港民営化やLCC促進は功罪相半ばする政策であり、我が国の国土交通行政に大きなメリットをもたらすほどの“大胆な改革”呼ばわりするには、あまりにもインパクトに欠ける。

国家の運輸行政を司る官僚たるもの、そんな小手先の改革に目を奪われるのではなく、世界全体の航空旅客数が2006年→2015年の10年間に21億人から35億人へと大幅に増加している一方、国内の航空旅客数は96百万人のまま(しかも、2007年からダウントレンドに陥り、2011年には一旦79百万人まで減少)、だらだらと足踏みしている原因を分析し、これを増加させる知恵を捻り出すことこそが高級官僚の仕事だろう。
【参照先】http://www.jadc.jp/files/topics/38_ext_01_0.pdf

国内の旅客数は、国内線を利用する騒がしいインバウンド客の大幅増加分を足して、ようやく10年前のピークに届くかどうかという惨状なのだが、こうした大惨敗の原因が、果たして空港民営化やLCCの遅れによるものなのか、じっくり考えてみればよい。

また、若手官僚の連中は、18年度予算の公共事業概算要求額が6兆238億円と昨年度対比で16%も増え膨張し続けていると嘆いて見せるが、勘違いも甚だしい。

ちなみに2009年度の公共事業費は当初予算8.7兆円+補正予算1.9兆円の合計10.6兆円もあったのが、2017年度には当初予算ベースで5.9兆円にまで減らされており、膨張どころか縮小するばかりだ。

緊縮論者や成長否定論者は、「人口減で使わない道路や家屋が増えているのに公共事業予算が減らない」とバカげたことを言いたがるが、人口減、とりわけ過疎地域の労働人口減が見込まれるからこそ、過疎地域と中核都市、あるいは、地域同士を結ぶ物流網や道路管理体制を一層強化する必要があり、公共予算は減らすどころか積極的に増やさぬと物流・交通ネットワークを維持できない。

また、少子高齢化に伴う空き家は年々増加しており、2033年の空き家数・空き家率の予測数字は2150万戸/30.2%と、2013年の実績値(約820万戸、13.5%)の2倍以上に上るとされており、とても民間だけでは捌き切れない。

こうした不良資産を大規模な財政支出を通じて国が一気に買取り、国有資産として他の民有地との等価・減価交換などで集約化したうえで新たに活用する手もある。

減少・衰退宿命論に囚われ、安易な予算削減論ばかり騙るのは、官僚として無責任だし、職務放棄と断じられても仕方なかろう。

国交省の若手官僚たちは、せっかく、国交大臣に対して大胆な視点でタブーなき直言をする機会を得たのだから、経産省のエセ官僚みたいに、予算カットや国民負担押し付け論に終始することなく、国民が顔を上げて力強く前進できるよう活気に満ち溢れた提言をしてほしい。

教科書に甘えるだけの書正論

実社会の仕組みを知らぬまま教科書論を振り回すバカ者に限って、「紙幣を増刷すると必ずインフレになる。インフレで給与が倍増すると名目GDPも倍になるが、市場にあるカップ麺の価格も倍に値上がりするから、実質的にはまったく豊かになれない(=実質GDPは不変)」と知ったかぶりで騙り周囲から失笑を買うものだが、20年もの長きに亘ってデフレ慣れしたせいか、ちょっとでも景気が良くなった途端に、世の中のありとあらゆるモノの値段が急騰すると本気で怯える国民も多い。

インフレに負の感情しか抱けぬ“インフレ恐怖症患者”は、ディマンド・プル型とコスト・プッシュ型の区別もつかぬまま、「インフレ→所得の目減り→生活困窮」と即断し、「インフレは悪、インフレなんて絶対にダメ、景気なんて良くならなくていいからモノが安く買えさえすればよい」とトンデモナイことを言い始めるから困ったものだ。

とにかく物価目標さえ達成すればOK、というお目出度いリフレ派の連中ならともかく、まともな経済論を訴える論者であれば、「適切な財政金融政策→収益・所得向上→需要力UP→マイルドインフレ発生→金利水準UP→投融資の活性化→供給力向上」という波及経路を目指すはずなのだが、インフレ恐怖症を発症し、成長を絶望視する国民を説得するには非常に手間がかかる。

成長の恩恵や果実を受け取るのは当の国民なのだから、絶望したい奴は勝手に絶望して家で寝ていろと突き放したい気分だが、インフレ恐怖症患者はカネの使い方を忘れがちで、成長の燃料となる消費や投資の足手まといになるから、面倒だが放っても置けない。

インフレ恐怖症の治療には時間が掛かりそうだが、まずは、件の“給与・GDP・カップ麺のトリプル倍増論”みたいな虚偽妄想の類を取り払うのが先決だろう。

需要が力強く拡大し、ディマンド・プル型のマイルドインフレが発生した経済成長下では、カップ麺の値上がりよりも所得上昇のスピードが勝り、実質所得が増えるものだ。

例えば、キャラメルを例にとると、森永キャラメル値段は昭和25年の一箱20円から平成27年には114円に、ビール大瓶の値段も125円から320円に上がったが、上昇幅はキャラメルで5.7倍、ビールで2.5倍程度でしかない。
一方、その間の大卒初任給は、3,000円から211,000円と70倍以上に膨らんでおり、“給与・GDP・カップ麺のトリプル倍増論”なんて単なる大嘘であることが判る。

景気が良くなり、モノがよく売れるようになれば、ビジネス拡大のチャンスでもあり、原材料価格も高騰しがちだから、メーカー側も値上げに踏み切り、より多くの収益を得ようと企む。

しかし、景気の過熱は、新たな参入他社や競合商品の出現を促すから、需要家サイドの選択肢も増えて自然と競合が発生し、市場価格の均衡点はメーカーの目論見より低い価格で頭打ちになってしまう。

(田舎高校で教鞭をとっていただけの世間知らずには理解できぬかもしれないが…)民間企業は、絶えず商品開発や生産性向上に努めているから、需要先行型の経済成長下で、サラリーマンの給料が増えた分だけあらゆるモノの値段が上がるなんてことは常識ではありえない。

Aという食品が便乗値上げでもしようものなら、すかさずBやCという競合品がもっと安い価格で投入され値崩れを起こしてしまうし、Dという飲料が爆発的にヒットすれば、たちまち消費者の関心はABCから離れてしまうのが実情だ。

競合は同じカテゴリーの商品同士のみではなく、まったく別のカテゴリーのモノやサービスとの競争を強いられるのも日常茶飯事だ。
吉野家のライバルは、すき屋だけでなく、日高屋やいきなり!ステーキ、格安スマホ、アイドルの握手券、ハンドスピナーなど、ありとあらゆるモノとの競合に晒されており、値上げのフリーハンドを与えられているわけじゃない。

それでも、景気過熱期にはアイテムにより利幅も大きく取れ、数も捌けるため、供給側と需要側がWin-Winの関係を保つことができた。
今では国内企業のうち70%近くが赤字だが、逆に高度成長期には黒字企業が70%近くに達するほどうじゃうじゃ溢れていたのが何よりの証拠だ。

インフレという言葉に脊髄反射で恐怖感を抱き、その本質を見誤ったままでは、いつまで経っても経済成長できないし、我々が豊かな生活を手に入れることも叶わない。

昭和30年頃に僅か5,000~6,000円に過ぎなかった初任給が20万円を超えるまでに膨れ上がったのは、その間のGDPが8兆円から500兆円超にまで拡大したおかげに他ならない。(※本来なら初任給は50~60万円くらいに、GDPは850~900兆円くらいにまで増えてしかるべきだったが…)

根がナマケモノの緊縮主義者や成長否定主義者は、「インフレ=コスト・プッシュ型」というイメージをばら撒き、財出や経済が毒であるかのような大嘘を吐くが、そんなものに騙されるようでは日本も終わりだろう。

ディマンド・プル型の正当な経済成長下であれば、成長の果実がもたらす恩恵は物価高騰のスピードを凌駕し、国民の実質所得を増やことができる。

インフレが怖いから成長に背を向けるなんて、経済の基本原理を見落とした児戯にも等しい暴論だと言えよう。

経済談義につきまとう極論と妄想

≪計画経済とは?≫
「一国の経済活動全般が、中央政府の意思のもとに計画的に管理・運営される経済体制。生産手段を公有化した社会主義国家経済の特徴の一つ」(デジタル大辞泉より)

筆者は、自ブログや進撃の庶民のコラムにて、たびたび、機能的財政論に基づく積極的な財政金融政策による不況打破を訴えている。

大規模な財金政策を打つとなると、当然、財源論に話が及ぶわけだが、財源云々より重視すべきは、“いかにして需要不足を早急に埋められるか”であり、調達手法の清濁に拘る気はまったくない。

国債発行という常道以外にも、超長期国債や永久国債、日銀の国債直受け、政府紙幣増刷まで、国民負担とならぬ方法なら何でもよい。

だが、世の中的には緊縮不可避論や成長絶望論を支持する意見が大半を占めている以上、筆者みたいな発想は「頭のおかしなイロモノ」扱いしかされない。

ほとんどの国民が経済や通貨の仕組みをほぼ理解しない状況下では、機能的財政論に基づく積極的財金政策なんて、あたかも絶海の孤島に棲息する“希少種”みたいなものだから、その本質や目的に対する無理解や曲解、誤解も多く見受けられる。

そうした曲解の代表格が、「機能的財政論者は計画経済そのもので、一国の経済を完全にコントロールできると思い込んでいる」というバカなレッテル貼りだ。
いまどき、ロシア人や中国人だって“計画経済”なんて言葉を忘れているし、産業構造が非常に複雑化したミクロ経済を精緻にコントロールできるスーパーマンなんてこの世に存在しない。

筆者が、機能的財政論とか積極的な財政金融政策を強く訴える目的は、実体経済(マクロ経済環境)に需要シーズ(seeds)を充満させ、国富たる供給サイドを維持向上させるための養分を無限に補給し続けるために他ならない。

常に拡大する需要を供給が追いかけ続ける体勢を維持してさえやれば、供給サイドはできるだけ効率よく需要を取り込もうとし、人材投資や生産性向上、技術・サービスの高度化に否が応でも取り組まざるを得なくなる。
その過程で雇用条件の改善や所得の向上がなされ、潤沢な所得を得た家計は、より付加価値の高い商品やサービスを求め、それが企業収益の向上につながり、経済活動が善循環し始めるのだ。

積極的な財金政策の役割は、あくまでマクロ経済の適正温度を保ち、経済循環の歯車を回し続けるための呼び水やきっかけづくりであり、“●●産業の年次成長目標▲%を達成させ、■万人の新規雇用を生む”などといった具合に、個々の産業活動に口出しするものではない。

云わば、野球やサッカーを楽しむための器(=スタジアム)づくりのようなものだ。

国内に世界レベルの野球選手やサッカープレーヤーがいたとしても、スタジアムや観客がスタジアムに足を運ぶための社会インフラがなければ、せっかくのテクニックを披露することも叶わない。

選手たちが自主的に河川敷や野原でプレーしてもよいが、それじゃあ観客が集まらないし、物好きな観客がやってきても、スタジアムという囲いがない以上、誰でも観覧できるから、彼らのプレーに対価を支払うシステムが生まれず、選手たちはたちまち干上がってしまう。

野球やサッカーを楽しむ観客(需要サイド)を大量に呼び込み、選手たち(供給サイド)が存分に力を発揮できるフィールドを用意してやれば、観客からのより大きな喝采を求める選手たちは技を磨こうと切磋琢磨するから、潜在能力やポテンシャルも上がり、彼らの華麗なプレーが観客をさらに魅了することになるだろう。

積極的な財金政策によるマクロ経済運営の基本は、個々の選手や試合の流れにアレコレ指示を下すのではなく、プレーヤーたちが十分な所得を稼げるフィールドを用意し、そこで彼らが競い合って技を磨き、それに魅了された観客らが気前よく対価を支払えるような環境を創り上げることに尽きる。

「財政政策論=計画経済」なんて幼稚な極論を吐くバカ者は、スタジアムの運営者が、「今日の試合は6-2のスコアでAチームが勝つシナリオだから」とか、「今回は、後半20分にBチームのC選手がヘディングで得点することに決めたから」とこと細かに指示するかのように妄想しているようだが、レベルが低すぎてコメントする気も失せる。

企業や家計などミクロ単位の経済主体をコントロールするなんて不可能だし、そうする必要もない。

うんざりするほど続くデフレ不況下で企業や家計がなし得る努力といえば、「雇用条件の切り下げ」や「消費や投資の切り詰め」ばかりで、その結果、国民は成長する意欲を失い、公的投資が軽んじられ、国富も大きく棄損してしまった。

退化と衰退の一途を辿る我が国を再び力強く前進させるためには、手段の清濁に拘っている閑はなく、個々の経済主体の努力が報われ十分な対価(売上・所得)を得ることができ、それが次なる投資や技術開発に原資となるよう実体経済を刺激し続けるべきだ。

成長と前進の向こう側にしか答えは存在しない。

教科書という老木にぶら下がるだけのミノムシ経済論者

教条主義』…「状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度。特にマルクス主義において、歴史的情勢を無視して、原則論を機械的に適用しようとする公式主義をいう」(goo辞書より)

千変万化する現実を認めたくない者や、それについて行けぬ者は、固定化した原理・原則や教科書に縋り平静を保とうとするが、現実から目を逸らし、情報のアップデートを怠り続けた時間分だけ知識が老朽化することに気付けないものだ。

一部のネット論壇に蔓延る老朽化・老害化した知識(=痴識)には、こんなものがある。
①紙幣増刷はインフレを招き、インフレは資産や負債を棄損する
②インフレで給与が2倍に、名目GDPも2倍になるが、モノやサービスの生産量は2倍にはならず(需要に追い付けず)価格が上昇するから、実質的にはまったく豊かにならない(給与が倍になっても、カップ麺が150円→300円になるだけ)
③インフレにより預貯金の価値も目減りする
④為替も大幅な円安ドル高になり円が大暴落し、アルゼンチン・ペソやブラジル・レアルみたいになる

まず、①だが、要は「インフレは資産や負債の価値を目減りさせるから、インフレを招来する積極財政や紙幣増刷なんてご法度だ」と言いたいのだろう。

まぁ、インフレと聞いて恐怖感しか抱かぬ“ハイパーインフレ論者”は、そもそも、経済活動のイロハを理解していない。

個人や企業間の生産・消費活動が活発化し、その規模が拡大することで、人々はより多くの所得を手にし、それを元手により高付加価値な商品やサービスを求め、生活の質や生産性を向上させることができるのだ。

こうした経済活動の規模を拡大させるには、異なる経済主体間で行われる交易や決済を円滑に行う必要があり、それを成しえる唯一のツールである通貨(紙幣)の増発・増産が欠かせないことくらい子供でも解るはずだ。

日本にはスティーブ・ジョブスラリー・ペイジみたいな革新的ビジネスを担う異才がいないと嘆く者も多いが、どれだけ革命的なビジネスであっても、その対価として支払われるおカネ(通貨や紙幣)が足りなければ、革新的ビジネスの芽なんて育つはずがなかろう。

実体経済で消費や投資活動に使われる通貨を増発させ、国民生活向上のエネルギー源となる生産力(=国富)の維持向上を図るのは、資本主義経済にとって当然すぎるほどの“常道”であり、それを否定するのは、頭の悪い頽廃論者でしかない。

ついでに、インフレが資産や負債を毀損する云々という空論の如何わしさについても指摘しておく。

物価が元気よく上がり続けていた1960年~1975年間に、消費者物価指数は2.93倍に、企業物価指数は1.74倍に増えたが、名目GDPは9.26倍、実質GDPは3.27倍と物価上昇以上に拡大している。

また、ストックである家計の金融資産はといえば、1979年~2010年間の消費者物価指数上昇率39.6%と比較して、同期間に約300兆円から1,500兆円へと5倍近くに増えている。

国内デフレ不況下での輸入物価高騰といった忌むべきコストプッシュ型インフレならともかく、経済成長に伴うディマンドプル型インフレがフローやストックの価値を毀損するかのような言いぐさは、たちの悪い流言蜚語でしかない。

次に、②のGDP&物価連動論だが、名目GDPがおよそ2倍になった1980年(239兆円)と2005年(501兆円)の物価を比較すると、白米10kg:4,142円→4,080円、砂糖1kg:270円→190円、ビール:240円→200円、そば・うどん:280円→450円、コーヒー1杯:250円→450円といった具合で、値段が上がったものもあれば、逆に下がったものもあり、世の中のあらゆるモノの値段が一律に上がっているわけではない。

ちなみに、カップ麺の代表格である日清食品カップヌードルを例にとると、1971年の発売当時の価格は100円で、直近の平均小売価格は148円くらいだ。
最近の物価指数は1971年頃の約3倍と推計されるが、カップヌードルの値段は300円どころか、長期デフレのせいで150円を切るありさまだ。

教科書の文字しか読まぬ小学生は、GDP上昇と物価上昇とが同時期に同程度起きるはずだから実質GDPベースでは成長しないと信じ込んでいるが、実社会で働いた経験のない経済素人には、供給サイドが常に取り組む“生産性向上”の実態が理解できぬらしい。

続いて、③のインフレが預貯金の価値を毀損させる云々という戯言について、それが真実なら、過去の高インフレ期に国民は預貯金を回避するはずだが現実は異なる。

1979年~2015年間に消費者物価指数は48.2%も上がり、インフレが預貯金の価値を毀損するのなら、それを嫌う国民は預貯金を減らしてしかるべきだが、その間に家計金融資産は約300兆円から1,500兆円へと5倍近くに増え、預貯金額は約200兆円から800兆円近くまで4倍にも増えている。

「インフレ=資産(ストック)価値の目減り」という経済学特有の考えなんて、名目値を重視しがちな国民の経済観念の前では極めて無力でしかない。

いくら物価が上がっても、物々交換が通用せぬ貨幣経済下にあっては、最後に頼りになるのは通貨しかなく、多くの国民は、物価変動の如何に関わりなく生活防衛のために貯蓄に励まざるを得ない。
ドイツやオーストリアで過去に起きたハイパーインフレ時に、人々が大量の紙幣を台車に載せて運ぶ写真があったが、紙幣が無価値に近い状態に陥ってもなお、経済活動を支える決済機能の主役を張れるのは“通貨”しかないことがよく解る。

最後に、④の「インフレ=通貨価値の大暴落説」には冷笑を以って応えるしかない。

1971年から今年までの円ドル為替相場の動きをチェックすると、1$=360円→111円へと円の価値は暴落するどころか、3.24倍に上昇しているのだが…。
しかも、1995年や2011-2012年には1$=80円を切る円高に悩まされていたこともあり、日本で起きたインフレ・デフレ経済連続経済下における長期円高という事実が、教条主義者の大嘘を見事に暴いてくれる。

高度な生産能力に裏打ちされた円の価値を、外資頼みで自国発の生産力を持たぬアルゼンチンやブラジルと同列に論じること自体が素人丸出しの発想だ。

教科書に噛り付くだけのエセ学者気取りの連中は、己の眼で現実をよく観察し、情報を適宜アップデートすべきだ。

現実に溢れる事象や情報を収集・分析したうえで書かれた教科書なら問題ないが、数十年~数百年以上も前に書かれたポンコツ理論だらけの教科書にしがみつくだけでは、時代の流れについて行けなくなり、持説の過ちを糊塗するために詭弁を弄し、矛盾だらけの大嘘を吐き続けるしかなくなってしまうものだ。

改訂されない教科書ほど役に立たぬものはない。

あとは財政政策の出番

『日銀、永久国債で財政刺激を 中原・景気循環学会会長 ~黒田日銀インタビュー』https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23844950U7A121C1000000/

〈聞き手:福岡幸太郎/日経記者〉
 黒田総裁の4年半の金融政策運営に点数をつけるとすれば、いかがですか。
〈解説:中原伸之/景気循環学会会長・元東燃社長・元日銀審議委員〉
 55点だ。評価すべき点は思い切って「異次元緩和」を始め、今も維持していることだ。円高が是正され、企業業績が大きく回復した。(略)
 一方で前年比2%の上昇とした物価安定目標の達成時期を6度も先送りし、いまだに達成できていない。金融緩和に逆行する緊縮財政的な発言をして、消費税率の引き上げを政府に促した。

〈福岡氏〉
 これから景気が悪くなる時に備えて金融緩和の余地を作る「金融政策の正常化」を模索すべきだとの意見があります。
〈中原氏〉
 正常とは一体何を指すのか。金融緩和の出口を語る人は経済のどんな将来を見通しているのか教えてほしい。(略)
今は日銀が国債を買う量を減らすと言っただけでも円高になる。金融政策は元には戻れない。日銀の総資産は500兆円にのぼるが、当分の間、抱え続けることを考えないといけない。

〈福岡氏〉
 次期総裁の任期中にとるべき金融政策は何でしょうか。
〈中原氏〉
 日銀の総資産は危機対策として100兆円ほど増やす余地はあるだろうが、金融政策だけでできることは限られている。財政出動との両輪で景気を刺激すべきだ。
日銀が保有する国債のうち、約50兆円を無利子の永久国債に転換する。償還の必要がなくなるので、政府が新たに期間60年の建設国債を発行できる。
政府が防災対策などに10年間で100兆円のインフラ投資をする。
 
このインタビューが、よく日経に載ったものだ。
中原氏は、元々、積極的な金融緩和論者として知られた人物だが、ここまで財政政策に踏み込んだ主張をされては、聞き手の福岡記者も、さぞ苦々しい思いだったろう。

なにせ、中原氏から、
・消費増税に賛成した黒田氏の態度を緊縮的だと責められ、
・金融緩和の出口戦略を頭ごなしに否定され、
・日銀保有国債の一部無利子永久国債化や100兆円規模の大型財政支出
まで提案された日には、緊縮教徒の面目丸潰れといったところか。

おまけに中原氏は、政府と日銀とのアコード(政策協定)を見直し、物価安定目標だけでなく、雇用水準(完全雇用)や名目GDP(2023年までに620~630兆円)まで目標化しろと、“緊縮財政・消費増税・金融緩和手仕舞い”の三点セットを狙う日経の思惑とは正反対の主張をしている。

筆者としては、2023年までに名目GDPが750~800兆円になるくらい財金政策のアクセルを思い切り踏み込むべきだと思うが、金融緩和政策の継続やインフラ投資を主軸とする大型の財政政策を訴える中原氏の意見に異存はない。

何よりも、「政府と日銀の政策協定も見直す必要がある。物価だけにとらわれすぎたからだ。より良い経済が実現し、結果として物価が上がるのが望ましい」という氏の言葉には賛意を表したい。

現行のインフレ・ターゲット政策が物価上昇率ばかりを気にするあまり、「財政政策との両輪による経済活動の刺激」→「企業や家計所得の向上、将来の収入UPやインフレ期待によるディマンド・プル型の物価上昇」という政策目的が蔑ろにされてきたことに対する強い警告だと言える。

近頃の我が国では、“国民総デフレ化現象”が蔓延し、未来への希望や成長を語るのを恥じるかのような風潮がある。
しかし、将来世代に衰退国家という負の遺産を残さぬためにも、強靭な国富(=生産力)を備えた社会基盤の構築が不可欠だし、そのためには高水準な経済成長を維持し続ける必要がある。

・社会インフラの維持更新や防災対策など20年間に200兆円のインフラ投資
(※工事発注量だけでなく発注単価も大幅に引き上げ、土木建築業界への参入や投資を促進)
社会保険料負担軽減のため年間30兆円規模の国庫負担を20年間継続
・消費税の廃止
・国民一人当たり月額3万円規模のベーシック・インカムを実施
これらを合計すると年額でざっと100兆円規模になるが、これくらいインパクトのある政策を打ち出さぬ限り、氷河期並みに凍り付いた国民の緊縮意識を氷解させることは不可能だ。

大型の財政政策の話をすると、やる気のない緊縮主義者の連中が、「財源はどうするんだ」、「人手が足りないぞ」、「円が暴落する」と騒ぎ出すのは目に見えているが、20年余りも財出を怠ってきたツケを払い、日本経済を再び力強い成長軌道に乗せるためには、守銭奴どものくだらぬ常識論など構っていられない。

財源なら、国債増発や紙幣増刷で何とでもなる。
そうした手段を忌み嫌うのは、「財出の財源=税収のみ」という旧式の発想に囚われた周回遅れのポンコツ緊縮論者の悪い癖だ。

供給能力の問題については、量でなく質の向上、つまり、発注量の増加ではなく発注単価の大幅引き上げで相当程度解決できるし、受注側の企業にとっても、公共事業受注の旨みが増せば、長期的な設備や人材投資の計画も立てやすくなる。

人手不足の問題も心配不要だ。
日本には失業者(190万人)、潜在的失業者(380万人)合わせて570万人もの労働力が余っているとされ、人手不足云々など、雇用条件改善努力を怠っている企業側の言い訳に過ぎない。

現に、中小企業基盤整備機構の調査(H29/5「人手不足に関する中小企業への影響と対応状況」)によると、回答のあった1,067社のうち73.7%が人手不足だと答えているのに、それを解消する方策として挙げられたのは、「多能工・兼任化(75.6%)」、「外注化(39.3%)」、「残業増加(35%)」といったものばかりで、「賃金や雇用条件の改善」との回答はたったの27.5%に過ぎず、企業の本気度が疑われる。

人手不足なんて言ったところで、所詮は、低賃金・長時間労働に耐えられる“奴隷”が見つからないと嘆いているだけのことだろう。

“円の暴落”云々に関しては、あまりにレベルが低すぎるので今回はスルーするが、怠け癖の抜けない緊縮論者や成長否定論者には、自分たちの愚策が将来世代に何を残せるというのか、具体的に提示してみろと言っておきたい。